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建学の精神と新島襄

私立大学を創る

新島襄はなぜ大学を創ろうとしたのだろうか。それを解く鍵は明治維新という時代と新島襄の個人史とにある。
明治維新は、政治も社会も生活習慣もトータルに変革しようとする史上空前の世直しが行われた時代だった。もしそこで教育制度が昔のままならば、旧人間が再生産され、旧体制が復活しかねない。だから学校制度を一新し、新人間をつくることは維新の革命を成功させるために不可欠だった。これが一般的事情である。この一般的事情に新島襄の教育にかけた宿志が加わり、同志社は生まれた。
新島襄の生涯は三期に分けられる。第一期は1843年2月12日[天保14年1月14日]の生誕から、元治元年、満21歳のときに国禁を破ってアメリカに密航するまで。第二期はあしかけ10年におよぶ海外生活。そして第三期は明治7年、満31歳で新生日本に帰国し、なぜか私立学校設立事業に邁進し、満47歳、1890[明治23]年1月23日、志なかばにして旅先の神奈川県大磯で永眠するまで、である。
新島襄

国禁を破った青年の旅

密航前、幕末の新島襄はけっして幸福ではなかった。すぐれた才能に恵まれ、強い勉学意欲をもっていたこの青年にとって、許された自由はあまりにも少なかった。四角く囲まれた4,000坪ほどの江戸安中藩邸がかれの世界のすべてであった。封建制度の抑圧のもとで自分の人生を押しつぶされそうになったこの青年は、ついに、かいま見た新世界めざして生命を賭けて船出したのであった。新島襄が大学づくりにかけた夢を格調たかくうたった文章に「同志社大学設立の旨意」があるが、その冒頭につづく一節では、 新島襄
回顧すればすでに二十余年前、幕政の末路、外交切迫して人心動揺するの時に際し、余不肖、海外遊学の志を抱き、脱藩して函館に赴き、遂に元治元年六月十四日の夜、竊(ひそ)かに国禁を犯し、米国商船に搭じ、水夫となりて労役に服するおよそ一年間、やうやく米国ボストン府に達したりき……
と語っている。それは今日のように太平洋をひと飛びしてホームステイするのとはわけがちがう。試練を覚悟し不安におびえながらも、温かい家庭をすてて未知の深みに決然と漕ぎ出した船出であった。またそれは、1年3カ月におよぶ船上労働に服しながらの青年の自立の旅でもあった。幕末日本での学問抑圧の体験が、のちの学校づくりの潜在的動機づけになっていたことに疑いはない。
さて10年ちかくにおよんだ海外生活で新島襄は最良の学校教育をうける幸運に恵まれただけでなく、岩倉使節団に協力して欧米各国の学校制度を視察する機会に恵まれた。そして文明開化熱のつづく日本に帰国し、わが国の次代をになう青年たちに最善の教育機会をあたえるべく学校設立事業にとりくみ、明治8年11月29日、同志社英学校の開校に漕ぎつけたのであった。

自発的結社としての大学を

明治21年、新島襄は20をこえる新聞、雑誌に「同志社大学設立の旨意」(以下「旨意」と略す)を公表して大学設立への協力をよびかけた。この文章は、前半で同志社諸学校開設にいたる経緯をかたり、後半で今なぜその上に大学が必要なのか、いかなる大学であるべきかを熱っぽく論じたものである。同志社 若々しい気魄のこもった名文なので、同志社大学合格を機会にぜひ一読をおすすめしたい(『新島襄全集1』同朋舎、また『現代用語で読む新島襄』丸善 参照)。 この「旨意」は毎年、入学式で一部朗読されるが、今でもそれを聴くとき胸の高まりをおぼえる同志社人も多いのだ。
なぜ新聞雑誌を通じて天下に訴えたかといえば、新島襄は私立大学を「人民の手に拠(よ)って設立」することを考えたからである。当時大学とよばれるものは、官立の東京大学一校のみだった。これに抗して、全国の賛同する民間人の手によって、つまり自発的結社という新しい組織原理によって大学を創ろうとしていた。自発的結社といえば、「同志社」つまり“志を同じくする個人の約束による結社”という名前自体この理念を示している。福沢諭吉の慶應義塾も同様の結社で、当時はこのような試みが可能だったのだ。

教育権を国民の手に

ではなぜ新島襄は官立大学に抗して私立大学が必要だと考えたのだろうか。それは第一に、人は自分で自分の子供を教育すべきだ――今日流にいえば、教育権は政府にではなく両親に属している――と自覚していたことによる。 同志社大学設立の旨意
吾人は教育の事業を挙げて、悉(ことごと)く皆政府の手に一任するのはなはだ得策なるを信ぜず、苟(いやしく)も国民たる者が、自家の子弟を教育するは、これ国民の義務にして、決して避くべきものにあらざるを信ず……
と記す。この「国民の義務」を「政府の手に一任」することは「無頓着にも、無気力にも、……依頼心の最もはなはだしきもの」だとも語っていた。幕末の藩主に強制された不自由な勉学と、新世界における自由という対照的な体験をして得た信念であった。「私立大学同志社」は、あくまでも「全天下に訴へ、全国民の力を藉(か)り、以て吾人年来の宿志」を実現すべきものであった。この精神に意気投合した青年たちも多かった。古くは徳富蘇峰や山崎為徳が東京の官学を辞めて同志社に集い、その後も柏木義円、安部磯雄や山室軍平などの人物が続々と同志社に進学したのはこの新島襄の私学の精神に共鳴したからだといえる。

人為脅迫的な官立教育にたいする警鐘

また第二に、「明治14年の政変」のあとで明治政府が文教政策を保守化させた事も、これまでにもまして新島襄に私立大学の必要性を自覚させた。文明開化期の教育が物質主義や習俗の混乱をひき起こしたとする批判が世間にたかまったとき、政府側は、儒教主義的教育を復活させた。これにたいして「旨意」では逆に、ふかく西洋文明の「由(よ)って来(きた)る大本」にまでさかのぼるべきこと、「キリスト教主義」を同志社教育の「基本」に据えるべきことを提案した。
新島襄の書斎 なかでも新島襄は森有礼文相の軍隊式の徳育教育に危機感をつのらせていたと思われる。それは「一国の青年を導いて偏僻の模型中に入れ、偏僻の人物を養成」している。その「人為脅迫的」官立教育から育つのは「薄志弱行の人」、オドオドと権威に弱い小者、型にはまったロボット人間――あの権力偏重の江戸時代とおなじタイプの人間の再生産――ではないか、と心配したのである。だからこそいま、私立大学が必要なのだ。「天真爛漫として、自由の内自(おのず)から秩序を得」る人間を育てる教育、青年の自主性や能動性を育てる自由教育は私学で行うしかない。「生徒の独自一己の気象を発揮し、自治自立の人民を養成するに至つては、これ私立大学特性の長所たるを信ぜずんばあらず」と私立大学同志社の使命を天下にうったえたのだった。

自由人が主人公である国に

さいごに新島襄の国家観と教育観についてふれておく。かれはかつて「政府転倒するも、人民必らず国を維持し、日本ネーションを失わざるべし」と書いた。あきらかに「国家」と「政府」の区別を知っていたのである。だから明治政府を批判しながらも、国家、ネーションを尊重した。そのときの国家イメージとは「平民国家」、デモクラシー国家であった。「旨意」のなかで、 イメージ
一国を維持するは、決して二、三英雄の力にあらず、実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人民の力に拠らざるべからず
といっている。少数エリートではなく、中堅人民の諸活動の積分的集合が近代国家を構成するという見識をもっていた。同志社大学の卒業生たちは「或は政党に」、「農工商に」、「宗教の為に」、「学者に」、「官吏に」と、要するに市民社会で主体的に活動する「千差万別」の人民に育つことを期待した。そしてまた「近きに迫まり」くる国会のためにも人物育成が急がれると考えていた。
新島襄が予定した「人民」とは、自立的主体性とパブリック意識を有する存在であったが、その根底では、なによりも自由でのびやかな「良心を手腕に運用する」人間を創ろうとしていた。
独自一己の見識を備え、仰いで天に愧(は)ぢず、俯して地に愧ぢず、自から自個の手腕を労して、自個の運命を作為するが如き人物
の養成が目標であった。良心、つまり個人の内面的価値判断を、政府よりも、集団よりも、校則よりも、何よりも優先させようとした。まさに自由人の原理である。私立大学同志社を創り、自分が自分の主人公である青年を育成することこそ、真の日本の将来に必要だと考えていたのである。

>>同志社大学設立の旨意(抜粋)
>>同志社大学設立の旨意(全文)[PDF]

同志社大学法学部教授 伊藤 彌彦
伊藤 彌彦 1941年東京生まれ。ICU卒、東京大学大学院修了。専攻は日本政治思想史で、明治国家形成期の秩序観や日本の教育を研究。ゼミの学生には目下、「以言伝心」、言葉をつうじて相互理解をひろげることをすすめている。著書に『維新と人心』『のびやかにかたる新島襄と明治の書生』など。

 





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