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八重のあゆみ(年表)

新島八重のあゆみを時系列に沿ってご紹介します。
年(和暦)月日出来事
1845(弘化2)11月3日会津藩(現在の福島県会津若松市)で父・山本権八、母・さくの間に生まれる。
男の子の遊びをまねることが好きな快活な子ども時代を送る。また兄・覚馬から砲術指南を受けた。自らも近所の子どもに砲術を教えたという。その子どもが白虎隊隊員となる伊東悌次郎。
1865(慶應元)川﨑尚之助と結婚。のち戊辰戦争の最中に離縁。
1868(慶應4)1月3日鳥羽・伏見の戦い。この時、会津藩主松平容保に同行していた覚馬は薩長連合軍に捕えられ、弟・三郎はこの戦いでの傷がもとで江戸にて亡くなる。
8月23日会津藩の重要拠点である戸ノ口原にて同盟軍が敗北。これより1ヶ月間鶴ヶ城での籠城戦が始まる。この時八重は銃を片手に入城する。
9月17日城外の一ノ堰の戦いで父・権八が戦死する。
9月22日会津藩が降伏。鶴ヶ城開城。八重は降伏の際に鶴ヶ城三の丸の壁にかんざしで涙ながらに和歌「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」を刻む。
1869(明治2)このころ覚馬は薩摩藩主に提出した「山本覚馬建白(通称、管見)」が認められ、京都府の顧問に就任。
1871(明治4)母・さく、姪・峰と共に覚馬を頼って上京。
1872(明治5)女紅場(現在の京都府立鴨沂高等学校)の権舎長并機織教導試補となる。(1875年11月まで)
1875(明治8)10月15日新島襄と婚約する。
11月29日同志社英学校開校。
1876(明治9)1月2日J.D.デイヴィスから洗礼を受ける(京都初)。
1月3日襄と京都で最初の日本人クリスチャンの結婚式を挙げる。襄32歳、八重30歳。
1877(明治10)同志社分校女紅場(のちの同志社女学校)開校時に礼法の教員となる。母・さくは同校の舎監となる。
1878(明治11)9月7日新居(現在の新島旧邸)が完成し、新烏丸頭町の借家から転居。
各地で説教をする。
1884(明治17)4月4日襄の欧米旅行に際し、田中源太郎、高木文平、浜岡光哲らが中村楼で送別会を開催。夫妻と覚馬で出席する。このあと八重と公義が襄の荷作りを手伝う。
1885(明治18)12月17日帰国した襄を中村栄助らと神戸港で出迎える。
1887(明治20)4月2日京都婦人慈善会発会式が京都倶楽部で開かれ、夫妻で出席。
6月17日仙台の東華学校の開校式に夫妻で出席する。
1888(明治21)1月1日襄は新年の挨拶のため自宅から同志社へ向かったが、道中、学内と2度重篤な状態に陥ったので帰宅する。
7月2日ひそかに難波医師に呼ばれ、襄の病状を聞く。「心臓病ハ全治ヲ期スベカラス」と聞き、大いに落胆する。
1890(明治23)1月19日襄に付き添う永岡喜八が、ひそかに襄の病状悪化を電報で知らせてくる。八重は翌日20日、夜11時頃に大磯へ到着。
1月21日徳富猪一郎、小崎弘道と襄の遺言を聞く。
1月23日午後2時20分頃、襄永眠。泣く八重に「グッドバイ、また会わん。」と言い残す。
1月27日午前11時半、新島邸で出棺式。午後1時から同志社礼拝堂前にて告別式が行われる。
4月26日日本赤十字社正社員となる。
1895(明治28)6月10日日本赤十字社終身社員となる。
11月18日日清戦争の従軍記章を受け取る。
1896(明治29)6月日本赤十字社員下賜勅語ならびに令旨を賜る。
6月1日日本赤十字社特別社員となる。
12月25日勲七等宝冠章と金70円を受け取る。
6月8日日本赤十字社篤志看護婦人会京都支会幹事となる。
1898(明治31)10月10日京都婦人慈善会理事となる。
1905(明治38)日露戦争時、大阪で2ヶ月間篤志看護婦として従軍。
1906(明治39)4月1日勲六等宝冠章を受け取る。
1907(明治40)自宅の土地建物を同志社へ寄付する。
1924(大正13)7月25日京都婦人慈善会名誉会員となる。
12月8日皇后陛下の同志社女学校行啓の時に単独謁見を許される。
1928(昭和3)11月昭和天皇即位の大礼の時に天盃を受け取る。
1931(昭和6)6月会津若松市にある大龍寺(菩提寺)に山本家の墓を建立。
8月1日同志社との間に覚書を交換し、若王子の新島家墓地の維持・管理を同志社に委任する。
1932(昭和7)2月京都ホテルで米寿祝賀晩餐会が開かれる予定だったが延期された。
6月14日急性胆のう炎のため自宅で永眠。
6月17日同志社栄光館にて同志社社葬。
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