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第10回 男装の女性の系譜――近代化のなかの新島八重

 幕末から明治にかけての日本は、御一新の時代といわれるとおり、政治、経済、社会、風俗の大きな変革期。それは女性にとっても激動の時代であり、新島八重はまさに、その変革の時代を生きた女性であった。
 会津藩士の娘として生まれた八重は、戊辰戦争時、髪を切り、男装で戦った。男装で戦う女性といえば、ディズニーアニメの『ムーラン』や池田理代子の名作漫画『ベルサイユのばら』のヒロインが連想され、現代のメディアでも人気を博している。彼女たちの姿は、男性中心の社会に女性が参画しようとするとき、男の姿をとらねばならぬという、社会の男女差別のあり方を示唆している。
事実、八重の生きた時代にはほかにも男装の女性たちがいた。女性民権家として活躍した佐々木豊寿(1853年(嘉永6年)~1901年(明治34年))は、少女時代に男装し、馬に乗って闊歩したといい、やはり女性解放運動家の一人・福田(景山)英子(1865年(慶応元年)~1927年(昭和2年))は十六歳まで、髪を切って男子生徒のような格好で通学したという。

 「文明開化」の動きとともに、近代的な人権意識が高まり、士農工商の身分差別が否定されるとともに、男女差別も「文明」社会にあるまじきものとして批判され、男女平等な教育(学制、1872年(明治5年))や女性の性の商品化の否定(娼妓解放令、同前)が明治政府によって打ち出される。しかしその内実は、女子の教育目的を家庭的な「良妻賢母」の育成に限定し、売買春も実質的に存続するなど、男女平等が本当の意味で実現されたわけではない。むしろ、明治も半ばになるにつれ、女性の政治活動が禁止され(集会及政社法、1890年(明治23年))言論の自由も制限されるに至り(新聞紙条例、1893年(明治26年))、実は明治近代は、男女の不平等が促進された時代でもあったのである。女性の社会活動を抑圧する時代にあって、女性職業作家の先駆・樋口一葉(1872年(明治5年)~1896年(明治29年))も、「かひなき女子」(日記より)と、自分が女性であることを嘆いた。こうした時代背景のなかで、男性と対等に教育を受け、社会貢献しようという意欲にもえる女性たちは、男装する必要に迫られた。八重は一葉らの女性たちに比べて一世代以上の、いわばお姉さん格にあたるが、男性中心の日本社会で主体的に活動しようとした近代女性の、いわば象徴的な先駆として位置づけることができよう。

 周囲の揶揄にもめげず、夫・襄との対等なパートナーシップを志向した八重の夫婦関係は、妻が家庭を“守り”夫が外で仕事をするという、保守的なジェンダー役割意識がいまだ強い日本の夫婦にも、重要な“教育効果”を与えてくれるであろう。八重と襄はともにキリスト者であったが、明治期に結婚し、男女の対等なパートナーシップを模索した夫婦には、若松賤子(1864年(元治元年)~1896年(明治29年))と巖本善治(1863年(文久3年)~1942年(昭和17年))のように、キリスト者の夫婦が多い。これは、明治期のキリスト教思想が日本の男女平等思想に大きな影響を与えたためであり、特に、若松賤子は八重と同じく会津若松出身。会津女性の強さを示す興味深い共鳴である。

 平成の現代においても、日本女性の社会的地位は、残念ながら国際比較上極めて低い(男女格差を示すジェンダー・ギャップ指数では、日本は135か国中98位、2011年。世界経済フォーラムによる)。男女共同参画に関して、いまだ課題山積の日本において、新島八重を主人公にした大河ドラマが制作、放送される社会的意義は実に大きい。日本女性、ひいては日本社会の現在と将来の問題を考える重要な手がかりとして、八重の人生は輝きを放っている。
佐伯 順子(さえき じゅんこ)
同志社大学社会学部 メディア学科教授
専門はメディアのなかの女性、ジェンダー
著書に『「色」と「愛」の比較文化史』『「女装と男装」の文化史』等
佐伯 順子
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