こちらに共通ヘッダが追加されます。
  1. 新島八重と同志社ホーム
  2.  > 八重と同志社
  3.  > 繋ぐ想い
  4.  > 第11回 竹西紘一

第11回 「戦は面白い」――現代日本から見返す八重の生き様

歴史というのは、どの視点に立つかによって多様な解釈がなされるものだと思います。それが歴史を基にしたフィクションであれば尚更です。ゆえに歴史には侃侃諤諤の議論が付き物ですが、過去の人物の偉業は現状を嘆く道具として用いるのではなく、そこから私たちが何を引き出すかが重要でしょうから、歴史に1つの正解がなくてもいいのかもしれません。
八重の生涯もドラマ化にあたって当然脚色されるでしょうし、視聴者もそれぞれに解釈をするでしょう。八重は会津戦争において大砲の指揮を執り、松平容保の御前で砲弾の説明をし、大山巌を狙撃したといわれています。また夫・襄や兄・覚馬を通して勝海舟や岩倉具視、木戸孝允らとも面識がありました。しかし物語として描かれると、これらの史実は一部の人にはフィクションとして捉えられてしまうかもしれません。受容者が「当時の女性がこんなに活躍できるはずがない」というフィルターを通して見てしまうからです。また、「八重が同志社を設立した」と勘違いする人もいるでしょう。そういった誤解は防ぎようがありません。同志社生としては残念ですが、逆に同志社生だからこそ、細かい歴史的事実の検証は同志社に任せてもらって、皆さんには八重の魅力を自由に感じてもらいたいとも思います。

大河ドラマ『八重の桜』を記念して、同志社大学と同志社女子大学は『新島八重と同志社』というリーフレットを学生と共同で作成しました。私の所属する漫画研究会は10ページの漫画を執筆させて頂くことになり、これは大仕事であると、まず分担して文献を調べました。大学の図書館はもちろん、国立国会図書館にも足を運び、八重の生の言葉に当たるよう努めました。また実際に会津若松市を訪れ、豪雪の中レインコート1枚で八重ゆかりの地を巡りました。短い漫画の中でできる限り八重という人物を伝えるために、彼女を深く理解する必要があると考えたのです。
その中で特に私の関心を引いたのは、『新島八重子刀自懐古談』における八重の次の発言でした。

「随分戦ト云フモノハ面白イモノデゴザイマシテ、犬死シテハツマリマセン。ケレドモ、戦ウトコロヲ見マスト女デモ強イ心ニナルモノデ、モウ殺サレルノカト思ヒナガラモ、丁度一町程先ノ所デ戦ツテイルノナド見マシテゴザイマスガ、ナカナカ面白イモノデゴザイマス。私ハ弾ガ二ツ中(あた)リマシタケレドモ、幸ニシテ死ニマセンデシタ。」

この発言は八重が亡くなる3週間前のものです。私は驚きました。八重は戦争で弟と父を亡くし、敗北して故郷も失っています。さらに日清・日露戦争でも篤志看護婦として活躍しているので、「もう戦はこりごり」と言ってもおかしくないはずです。しかし八重は人生を振り返って、それを「面白い」と言ってのけました。私は、これこそ八重が生涯に渡って貫いた姿勢だと思います。
愛する家族と故郷を亡くした八重の悔しさは計り知れません。ですが敗けた者こそ現実と戦わなければ、どうして生き残ることができるでしょうか。「犬死シテハツマリマセン」――これは、辛酸を舐めた彼女の率直な気持ちだと思います。こうした理由から、『新島八重と同志社』では戦う人間としての八重を強調しました。
戦という言葉は「絆」を求める昨今に相応しくないと考える方もいるかもしれません。しかし原発や瓦礫処理の問題では人々の間に溝が生じ、「絆」という言葉も虚しく響いています。また私がボランティアとして被災地を訪れた際、「被災者と気持ちを共有しましょう」とか「寄り添いましょう」「支え合いましょう」といった言葉が氾濫していることに違和感を覚えました。善意からの行動とはいえ、被災者の中にはボランティアのこうした態度を快く思わない方もいると聞きます。無理に分かり合おうとすると、かえって溝が深くなることもあるようです。
ではどうしたら良いのでしょうか。新島襄は日本のために身を捧げた人物ですが、キリスト教主義の学校を建てるというのは当時の人々には理解され難いことでした。世間の不理解と戦いながら信念を貫く襄の姿は八重と重なります。そんな夫婦ですから、真の「絆」と「寄り添い」「支え合う」姿があったことでしょう。絆は自然に芽生えるものであり、「寄り添いましょう」などという言葉で強いるものではありません。また、このたび明治維新が幕府側から捉え直されるように、現在の対立も未来から見返せばそれぞれに意味のあるものとなっているかもしれません。たとえ理解し合えなくとも、それぞれが自分の立場から社会に貢献しようとすることが大切だと思います。

戦が面白いという、ともすれば過激とも思える八重の言葉は、ドラマで用いられることはないでしょう。先の大戦の反省からか、日本において争い事はとかく忌避されがちです。けれども今、現実に、何もしなければますます沈む国に身を置いている以上、戦うのは嫌だなどと言っていられないのではないでしょうか。
戦後日本は、よく江戸時代に喩えられます。長い平和の中で円熟した文化、為政者の腐敗、庶民の中に漂う諦念。そんな終わらない日常が江戸時代には黒船によって、現代では震災によって打ち破られました。現在、政治・芸術・文化等の領域に変化の兆しがあります。今はまだ静かですが、近い将来この国を大きく揺るがす気がしてなりません。その中で私たちは更に激しく対立することになるでしょう。
会津、同志社、日清・日露戦争――それぞれの場で、八重は敢えて戦いの中に身を投じました。襄が残した詩、「真理は寒梅の似(ごとし)、敢えて風雪を侵して開く」を髣髴とさせる生き様です。もう1度、上記の八重の発言を読んでみて下さい。戦いに身を置いてこそ得られる、生きる喜びで溢れていると感じませんか。
竹西 紘一(たけにし こういち)

1990年 東京都生まれ
同志社大学文学部 美学芸術学科在学中
同志社大学漫画研究会会長 (2012年現在)
竹西 紘一
.