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第12回 八重のふるさと・会津から

エッセイスト:大石邦子 

 八重が亡くなって80年、八重のふるさと会津は、いま八重ブームに沸いている。
 来年の大河ドラマの撮影も順調なようで、震災で落ち込んだ鶴ケ城跡にも、観光客が戻っているという。
 八重関連の記事を目にしない日はなく、出版やイベントが相次ぎ、会津鉄道や会津バス、大型のトラックに至るまで、車体一面に「八重」のラッピングを施して走る。
 新たな資料も見つかって、直近では、県立葵高校で貴重な資料が見つかった。いま図書主任の鎌田先生を中心に纏められている。楽しみである。
 というのも、女性の目から見た八重像が綴られているからだ。八重の講話を直接聴いた女学生たちの手記である。

 従来の八重のイメージは、封建的男社会のなかで、男の目によって作られたもの。結婚後の八重の評判が芳しくないのも、仕方がない。
 八重の生きる意味は、主なる神の前に結ばれた愛する夫、襄の夢の実現のために、何があろうと、夫を支えぬくことだった。
 アメリカ帰りの夫は、アメリカでの生活、理想とする夫婦のあり方、キリストの愛、そして、大學設立の夢などを熱く語ってくれたことだろう。
 けれども、時は明治の京都、仏徒千年の都である。キリスト教や、洋装や、レデイファースト等、受容れられるはずもない。
 世間の風当たりは、当然、女の八重に向かってゆく。しかし八重は、どんな誹謗中傷にも、逆らわない。黙って聞き流す度量をもっていた。いや、度量というより、それこそが戊辰戦争に生き残った者の覚悟であり、戦いであり、会津武門の自負でもあった。

 八重の生涯は、会津時代も京都時代も、どんな時にも、自分のおかれた状況のなかで、自分の成すべきことに向かって力を尽くし、心を尽くし、耐え忍び、精一杯生きてきた。
 それは襄が亡くなった後も変わらない。自分を必要とする人々がある限り、全身全霊で応えようとした。
 後の人々に、「近代日本女性の草分け」「日本のナイチンゲール」と称えられて不思議はない。不思議なのは、これほどの人が、何故、自分については一切書き残していないのか、だった。わずかな私信と、和歌と、インタビューに2,3度、答えただけである。
 ところが、その初めてのインタビューの年を見て、一瞬、謎が解けた思いだった。
 昭和3年である。この年は、旧主君の孫・勢津子が皇室に嫁ぎ、「朝敵」とされた戊辰戦争の汚名が潅がれた日と、旧会津の人々は万感の思いに泣いたという。
 60年余の時を経て、敗者の戦いは終わったのだ。「自」を封印してきた八重の心も、ようやく解き放たれて、八重は詠う。
いくとせか峰にかかれる群雲の晴れてうれしき光りをぞみる
万歳 万歳 万々歳    (昭和3年)
 八重の死、4年前のことである。
 11月3日は、八重の誕生日。存命なら167歳になる。
大石 邦子(おおいし くにこ)

福島県会津生まれ、会津在住。(エッセイスト)
主な著書
「この生命ある限り」  講談社刊
「この愛なくば」    講談社刊
「この胸に光りは消えず」講談社刊
「この窓の向こうへ」  講談社刊
「私の中の愛と死」   講談社刊
「遥かなる心の旅」   講談社刊
「この生命を凛と生きる」 講談社刊
「人は生きるために生まれてきたのだから」講談社刊
歌集「冬の虹」     歴史春秋社
児童文庫「野口英世」歴史春秋社  他
大石 邦子
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