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第13回 国難に奮い立つ八重子 八重子は三度(みたび)蘇る
新資料発掘!劇的な展開
福島県立葵高校(前会津女子高等学校)には新島八重の直筆の書が4点ある。この80年間はゆったりと若人の旅立ちを見送ってきた。事情が一変したのは昨年である。東日本大震災の復興の旗手として、来年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公に抜擢されたからだ。
葵高校に勤務する者の使命はただ一つ、この四つの書についての説明責任を果たすことだが、にわか仕立てでうまく行くはずもない。とんと答えられないでいた。
しかし、今年9月頃から相次いで新資料が発掘されて、劇的な展開を見たのである。
昭和3年黒谷修学旅行
「慈愛に満ちた八重子」を活写 !
葵高校の前々身会津高等女学校「松操會誌第四号」(昭和4年3月刊生徒会誌)はまさに 祝賀ムード満載であった。秩父宮妃勢津子の奉祝記事であふれる中に、恒例の修学旅行記事も埋もれずにあった。
この年の修学旅行は5月15日夕刻京都駅に到着している。京都駅に出迎えたのは京都大学総長であった新城博士、そして翌日は、「鴨川琵琶湖のインクライン」が電力会社の都合で動かず、「已むなく黒谷に向かった」事情が書かれてある。黒谷では京都會津会の方々が、茶菓子で生徒達を接待してくれている。
やや遅れて、八十四歳の八重子が京都會津会の「奥田氏」に紹介され、にこやかに生徒達の前に立ち講話をする。
慈愛に満ちた笑顔、幾分ふるえを帯びた優しい声、「人は真という一字をどこまでも守らねばならぬ。」「美人は心の美しい人である。」「私も擂鉢のような会津盆地で育ち日新館童子訓だけで育った」と前口上を述べて「日新館童子訓」の暗唱。女学生に請われるままに宝冠賞を見せ「どうぞいい子になってね。」と言葉をかける八重子の姿。感激にうちふるえ涙する女学生達。何と、二人の女学生の手によって、生身の八重子が2000字にもわたり活写されているではないか。!
黒谷修学旅行の八重子は秋山角弥氏の「記憶力の非凡なおばあ様」(同志社刊追悼集)でよく知られているが、同じ八重子でも立場が違えば印象も変わるものである。秋山氏は八重子の記憶力に驚嘆しているが、女学生達は八重子の慈愛に満ちた姿に涙しているのである。心底に流れるものの違いであろう。
また、翌日は大阪に旅立つ女生徒達を京都駅で見送る八重の姿が描かれている。まるでドラマの一場面を思わせる。老境の八重子がふるさと会津への思慕を、ハンカチを振る手に込め、いつまでもプラットホームで見送る姿が、女学生の瑞々しい感性によって描き出されている。
「松操会誌」の大きな付録
「歴史的書画展覧会昭和三年九月廿八日」
「松操會誌」は修学旅行だけではなかった。巻末には学校行事の記録がある。その中で瞠目したのは「歴史的書画展覧会昭和三年九月廿八日」である。
「畏しこくも 秩父宮殿下の御慶事の日に於て之を記念する・・・わが會津に因める戊辰当時の偉人哲士の遺墨を蒐集して展覧會を開催することとした。この催しは頗る意義ある事にして地方人士の人気を引いた。今左にその陳列品を紹介しよう。」とあり、第一室保科正之公・松平容保公(四幅)・山川浩(二幅)と錚々たる人名が15人居並び、第二室には共同作品も含めて37人の烈士が続く。その中に新島八重子(3幅)とあった。
八重子はこの展覧会のために、
''「美徳以為飾 八十四歳八重子」
「萬歳々々萬々歳 八十四歳八重子」
「故郷の萩の葉風の音ばかり今も昔にかはらざりけり 八十四歳八重子」 ''
の3幅を準備し出品したのである。
展覧会後はそのまま女学校に寄贈したのであろう。本校には八重子以外の戊辰戦争当時の藩士の遺作が多数あるが、この展覧会の折にすべてではないにしてもかなりの寄贈があったのではないかと推察される。
さらに新資料エッセイ集「木槿の花は惜しくも」
昭和5年学校訪問講話の上、揮毫した書とは?
先の「松操會誌第四号」と前後してさらに新資料が見つかる。故星野美子著「木槿の花は惜しくも」(昭和56年刊)というエッセイ集である。本校出身のエッセイスト大石邦子さんの下知「八重さんが時々女学校を訪問していた証拠を探して!」により、友だちネットワークが大いに機能し見つけ出された資料である。本校図書館にも寄贈されていた。星野美子氏は本校の前々身会津高等女学校(昭和7年3月)卒の茶道の先生であった。市内に門下生がたくさんいる。エッセイの中の「徳富蘆花と会津」という一文の最終段に
「蘆花の小説に『黒い目と茶色の目』というのがあるが、黒い目は同志社の学生だった蘆花が大変あこがれたが若くして逝った覚馬の妹でひさし髪の寿子の目であり、茶色の目は蘆花が常に畏敬した新島襄の目であった。筆者が会津高女三年の時、来校された八重子夫人が若き日の思い出を話されたが、その時書き残された「美徳以為飾 八十歳八重子」の額は今も同校の茶道教室の長押に掲げてある。 (昭和52年4月16日)」とあった。
50年前の回想である。一読してかなりの記憶違いや誤謬に気づかれるが、「筆者が会津高女三年の時、来校された八重子夫人が若き日の思い出を話された」という点に釘付けになる。本校の学籍簿によれば、故星野美子さんの高女3年は昭和5年に当たる。
八重子は昭和5年4月に次の歌を詠んでいる。
''ふるさとわすれがたく
老ぬれどまたもこえなむ白川のせきのとざしはよしかたくとも ''
(八重子 86歳 吉海直人著「新島八重子 愛と闘いの生涯」再販参照)
老骨に鞭打ってでも白河の関を越えねばならぬ事情とは何であったのか。勢津子妃ご成婚によって朝敵の汚名を雪いだ会津藩、残るはただ山本家の生き残りとしての使命、山本家の菩提を弔う事であったに違いない。この年は、山本家の墓所建立の算段に訪れたのであろう。八重子数え歳八十六歳、覚悟の上の旅で、学校訪問の講話は次世代に会津の未来を託す意味が込められていたと思われる。
この時、八重子の代表作である「明日の夜は」の歌を校長が所望し八重子がしたためたとしても不思議はない。八重子は本校にある四点のうち、この書にのみ「八重子八十六歳拙筆」と記している。翌、昭和六年、墓所建立法要のため会津を再訪しているのであるからすべてが符合する。
''昭和5年女学校で揮毫し寄贈したのは「美徳以為飾 八十四歳八重子 」ではなく、
「明日の夜は何国の誰かながむらむなれしお城に残す月影 八重子八十六歳拙筆」''という事になる。
八重子の書が本校にある経緯は大石邦子さんの「八重子伝」(福島民報2012年3月から4月に連載)に端を発し、故星野美子さんのエッセイ集「木槿の花は惜しくも」生徒会誌「松操會誌第四号」へと連携されほぼ解明された。手前味噌になるが、本校同窓生の合わせ技で見事に一本!という感じである。
伝聞によるもの、記憶違いや誤謬を無価値なものとして一蹴してしまうのは早計である。記憶違いや誤謬は謎を生むが、その謎解きこそ面白い。真実に近づく醍醐味がある。
66年前にも
復興の旗手であった八重子
会津若松市では昭和21年7月21日~23日にかけて、戦後まもないころ、「会津図書館移転記念会津人三人、山川浩 廣澤安任 新島八重子 の遺墨展覧会」を催している。「はしがき」(開催目的)には次のように述べられている。
「明治戊辰の戦に、苦汁をなめた會津は、一藩四散し、惨状は其の極に達し、藩の人々は上下を問はず、山陰の農家にまで、其の身を寄せて過ごしたといふ。其の後食封僅かに三萬石の斗南に移されたが昨日まで、二十八萬石の大藩として四隣を懼伏せしめた威名も歴代豊かであった食録も一朝にして地に落ち栄華豪壮を夢みた、過去は忽ち醒めて、今日は見知らぬ土地に居を移し荒野を拓き、痩地を耕して飢寒を凌がねばならぬこととなったのである。今日、日本の現状はどうであろうか、正に會津の苦難其のものの如き姿である。今や、民主主義に生きて再建すべき日本に、旧會津藩子弟の再起は、何らかのヒントを与えるのではあるまいか。(後略)」
未曾有の敗戦から日本が復興するために「戊辰戦争後再起した三人」の生き方が日本国民にヒントを与える。その「會津先賢三人」の一人として新島八重子が選ばれている。このことは、八重子の生き方が会津の人々の深い共感と賞賛を得ていた現れであり、身分や性、宗派を超えた信頼と尊敬の念が八重子に払われていたことが分かる。今さらながら、
当時の会津の人々の慧眼に驚かされる。
八重子は66年前の第2次世界大戦後の復興の象徴として、一地方の遺墨展ではあるが抜擢されていたのである。出品目録(会津若松市立図書館稽古堂所蔵)によれば、八重子の書は次に掲げる3点が、本校から出品されている。
''「萬歳々々萬々歳」
「故郷の萩の葉風の音ばかり今も昔にかはらざりけり」
「明日の夜は何国の誰かながむらむなれしお城に残す月影」''の3点で「美徳の書」は学校の作法室に待機していたようだ。
この時の出品目録が元となって、同志社社史センターには葵高校(当時は会津高等女学校)3点と記録され、「美徳」の書は、昭和3年から起算すれば、80年をも深窓に眠る事になったと思われる。
国難に奮い立つ八重子
八重子三度(みたび)
生きて還る事はもはやあるまいと、決死の覚悟で戊辰戦争を戦い抜き、不本意にも生きながらえる事になった八重子は京都という新しい舞台で、愛夫新島襄と出会い復権する。
早朝の銭湯で「先陣争い」をするような庶民感覚に生きた一面、日清日露戦争を篤志看護婦として従軍し奉仕活動に心血を注いだ八重子。戊辰戦争時の華々しい武勇伝もあって戦意高揚に大いに利用されたであろうと思うが、戦後の日本国民すべてが絶望のどん底にあった時も八重子は、故郷会津という狭隘な地域ではあるが、それも、民主主義日本の再生の旗手として蘇っている。
そして、今、東日本大震災、原発事故、長い長い経済不況、二重に三重に天災と人災が襲いかかり、あえぐ東北の人々、いや東北だけでなく日本全体に重苦しい雲が覆っている。
日本が国難にあえぐ時、八重子は不死鳥のように蘇る。八重子の生き方を人々は希求し、明日への標榜として、繋いで行こうとするのだ。
「八重の桜」で八重子は三度復興の旗手となる。
八重子の思いに恥じぬよう民主的で洗練された日本への再生を願って止まない。
平成24年11月3日
新島八重子(山本八重)生誕の日に
2006年4月より福島県立葵高等学校勤務
国語科教諭・図書主任 鎌田 郁子(かまた いくこ)