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第14回 新島八重先生の歩まれた道と良心碑

同志社大学名誉教授 新村出記念財団理事長:玉村文郎

 私が理事長を務める新村出記念財団の『広辞苑』には、<新島襄>先生の項に

教育家。江戸の生れ。21歳のとき渡米してアーモスト大学を卒業。1872年(明治5)より岩倉全権大使に随行してヨーロッパを視察。75年京都に同志社英学校を創設、キリスト教主義の教育を創始。(1843-1890)

と記述されている。
 八重先生は新島先生とともに、近代日本の教育を進められた。
 伝統と創造が重なりあう明治期の京都では数々の<日本初>が登場した。小学校開設、女子中等教育機関設置、洋式機械織物工場、軽気球打ち上げ、水力発電、琵琶湖疏水事業、市電開通などである。全国に先駆けた、このような諸事業は、京都人の一見保守的に見えて進取の精神に富む気質が開花したものと見てよいだろう。
 これら京都の近代化には、京都府顧問として第2代知事槇村正直を補佐した、八重先生の実兄山本覚馬先生の貢献が大きかった。山本覚馬先生は府議会初代議長・府商議所会頭も務められていることからも、京都府の行政・経済・産業界と<深い信頼関係>、<絆>で結ばれていたことを垣間見ることができる。
 八重先生について、記すべきことは多いが、新島先生亡き後も単なる、<一市民>として<一女性>として、行動され信ずる道を歩まれたということに集約できるのではないか。
 今ほど男女平等の思想が根付いていない当時にも、八重先生は、男性と対等に生きようとされたことがうかがえる。女性による慈善事業・看護活動・看護婦養成等々である。
 八重先生の京都での最初の活動の舞台は、上京区の南東、土手町の一角であった。丸太町橋の西南にあった九条家邸宅跡に、京都府の女紅場(にょこうば・女学校)が創られ、最初の出頭女(女性教師)12名の1人として勤められることになった。この女紅場はそののち寺町通丸太町上る松蔭町に移り、府立第一高等女学校(現鴨沂高校)となった。またそのすぐ南には新島先生と住まわれた家がある。元の女紅場跡は後に電通会館に変わり、今は民間施設になっている。女紅場の教師としての3年半の間、八重先生は木屋町の方からこの丸太町へ雨の日も風の日も通われたことであろう。
 寺町通は、北は鞍馬口通から南は万寿寺通に至る長い通である。京都御所の東側には紫式部の邸があったと伝えられる廬山寺や梨木神社などがあり、商業活動の盛んな下京区とは対照的な閑静な通である。この寺町通を、ある時は新島先生とともに散策し、ある時は一人で全速力で走り、ある時は人力車を飛ばされたことであろう。八重先生はこうして寺町を往復され、晩年はこの地でお茶を楽しまれた。
 <丸太町>と<寺町>、この二つの道こそが八重先生の<仕事の道><生活の道>であり、<新島先生との語らいの道>であり、<黎明期の女性の道>であった。めまぐるしく世界が動く今日、価値をどこに見出し、どう進路をとるべきか、迷うことも少なくない。そんな時、新島先生や八重先生が何を考え、どう生きられたか、と思いを馳せながら静かにこの道を歩くのもわるくない。日本の伝統を守り、新しい世界を拓き続けられてきた八重先生のことを語ってくれる大切な道である。
 丸太町通の東方の若王子山に眠られる新島先生を偲んで、「心あらばたちなかくしそ春がすみ御墓の山の松のむらだち」と八重先生は詠まれている。

 八重先生の<正しいこと><よいこと><なすべきこと>と信じれば、直ちに行動に移し貫徹しようとされた、真っ直ぐで力強いところ、つまり心からの誠実さが、<良心の碑>とともに、京都の人々に認められ、愛され、慕われ、敬われ、受け入れられていったのであろう。
玉村 文郎(たまむら ふみお)

文学博士
同志社大学名誉教授
(財)新村出記念財団理事長
玉村文郎
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