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私が、八重を描こうと思ったのは、震災がきっかけでした。
それ以前から、会津の酒蔵を漫画にしていた私は、たくさんの会津人と知り合いお世話になり、友人が出来ていました。
酷い風評に喘ぐ会津と、ただ一緒に居たくて、もう一度、会津の漫画を描こうと決めたのです。
八重の事は、昔見たドラマで知っていたくらいで、ただ、彼女が籠城戦を戦い抜いた事。
人生を諦めずに生き抜いた事が、先の見えない風評と、原発事故に苦しむ福島に沿うテーマではないかと考えて、調べ始めました。
知識は全然無く、失礼千番ながら、八重の後の夫が、同志社の祖 新島襄氏であるという事も知らぬほどの無知でした。
調べ始めて、驚いたのは八重のあまりにも悪い評判でした。
明治時代の男の尺度で計られたものならいざ知らず、現代の男性でさえ、明治の価値観で八重を非難する有様は、私の目には、奇異なものに写ると同時に疑問が湧いて来ました。
夫が名前で呼べと言えば、襄と呼び、夫が洋食を食べたいと言えば、明治の時代に洋食を作り、夫の理想とするアメリカン・ホームの実現に努力した大和撫子。
こんなにも従順で、夫を立てる女性が悪妻でしょうか?
八重ほど教育があり、会津という厳格な武家社会で賢夫人との名高き、母親、佐久に育てられた娘があえて、悪評を振りまきながら京都の町を闊歩するでしょうか?
本来なら、つかず離れず、ソツない人間付き合いが出来る裁量があるのではないでしょうか?
今後、もしも八重の愚痴日記でも発見されれば、話しは別ですが、彼女の言葉で、後世に残っているものは、とても少なく、
残された歌は、夫を失った悲しみや、望郷の念や、喜びや、美しい歌ばかりに思えます。
八重は、自分を誹謗中傷した者への怨み辛み、愚痴を残していないのです。
受けた攻撃に攻撃で返さない。
愚痴や悪口や、恨み言を言わない。清らかな志。
それが、私の考える八重でした。
私が会津に惹かれた最初のきっかけは、会津絵ろうそく屋のご夫妻の会話で「私達は、雪深い所に育って、子供の頃は小学校までの道のりを前に通った人の足あとをたどって、何キロも歩いたの。そんな私達は、簡単には夫婦別れはしないの」と、話して下さった事でした。
その辛抱と我慢強さ、実直さに私は惹かれたのだと思います。
それは、八重の心の奥底に流れる志ではないでしょうか?
会津の人は、親しくなるまでシャイで、時に頑固で、時にプライドが高く関西人のお腹の中に溜め込まず、言いたい事は「ツッコミ」で返す、そんなおおらかさと、会津の思慮深さは真逆に感じます。
地域の人間性の違いも、京都で八重が溶け込みにくく、誤解された原因のひとつだったのかなと思います。
大河が決定して、会津は救われました。
八重が、風評に喘ぐ会津を助けてくれました。
この波が、どうか福島、東北、全域に届く事を願っています。
大河が終わり、いつかまた八重は歴史の底に眠るのかも知れません。
でも、幾人もの人々の心に、八重の心は息づく事と信じています。
これから先、後何年、何作描けるかは分かりませんが、私は、私の八重を心の中心に置いて、漫画を描いて行こうと思います。
有難うございます。八重さん。
松尾 しより(まつお しより)
漫画家 会津親善大使
八重をテーマに「清らに たかく」を執筆