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第16回 新島八重と川崎尚之助 ~会津に尽くした生涯~
新島八重には新島襄と結婚する前、ひとりの男と結ばれていた。
それが川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)だ。
これまでの川崎は不遇の扱いを受けてきた。その悲劇の集大成が昭和六十三年(一九八八)にテレビ放送された「白虎隊」だ。創作された彼の名前は「なおのすけ」。時代考証に携わったある郷土史家が根拠もなく「逃げた男」にしたのだ。それ以降、川崎尚之助のイメージは「逃げた男」になった。ドラマの中の八重は、「他藩の人間だから会津を見捨てるの?」と、このセリフが長年史実として扱われ、平成二十三年(二〇一一)に「八重の桜」の放送が決まった際、川崎尚之助は「会津藩から逃げた男」として紹介されたのだ。
ところが、ひょんな縁から私は北海道立文書館に川崎尚之助に関する文書があることを知った。その年の秋、札幌にある同館でその文書群と遭遇した。その文書はいままで捏造された彼のイメージを完全に払拭した。川崎は斗南藩(いまの青森県北部、川崎は現在のむつ市田名部に移住した)、つまり旧会津藩が飢餓に直面するのを見て奮起したのだ。彼は海峡を越えて貿易港函館に渡った。斗南藩で将来収穫できるであろう大豆と外国米との先物取引を行っていたのだ。それは移封してきた藩士たちを救おうと立ち上がった姿が、公文書の一群から浮かび上がったのだ。
しかし、川崎は仲間に裏切られ、外国人絡みの詐欺事件に巻き込まれた。この時代、不平等条約を抱えた日本ではこうした訴訟はほとんど敗訴するなか、有能で語学堪能な彼は奇跡的に勝訴した。だが、取り戻して清算すれば、残ったのは莫大な借金だった。尚之助は藩に迷惑をかけないため、その罪を一身に背負う決心をした。そのため裁判にかけられる破目となったのだ。
一方、妻の八重は会津戦争が終わった翌日、強制的に夫から引き離され、現在の福島県喜多方市の避難所で生活していた。そのとき運よく尚之助の弟子が米沢藩(現山形県米沢市)におり、会津に派遣されていた縁から米沢で一時暮らすことができた。それまで八重は尚之助からの手紙を待った。そのため、京都へ行くまで八重は「川崎八重」のままでいた。まさか夫が疑獄事件の暗雲に巻き込まれていたことなど露とも知らなかったであろう。
この後、京都に移った八重は兄の命令で川崎姓を捨て、山本家に復籍した。戸籍法により戸籍簿が作成されたのは明治五年(一八七二)で、川崎尚之助自身も自身の戸籍に八重の名前を載せなかったようだ。一身に背負った罪が連座しては愛する妻に迷惑がかかるからだ。その後、尚之助は不遇の謹慎生活の後、明治八年(一八七五)三月二十日、慢性肺炎で死去した。
川崎尚之助が会津の蘭学所に雇用されたのは安政六年(一八五九)だった。故郷の出石(現兵庫県豊岡市)では父親が政権抗争で更迭され、不遇の日々を送っていた。それでも家族は尚之助に蘭学を学ばせるために江戸へ送り出した。そこで山本覚馬に見出され、会津の国へ訪れた。何となく故郷と似た土地柄が彼を会津の土地へ定着させた。会津藩も礼節正しい彼を次第に受け入れ会津藩士として迎え入れた。その恩に報いた川崎尚之助の波乱な生涯を八重は知っていたかは謎のままだ。
このように平成二十三年(二〇一一)秋より開始した調査から一年半が経とうとしている。この一年半で川崎尚之助のイメージはかなり覆ったと思う。おかげで「川崎尚之助と八重」を上梓する際、解説をいただいた同志社大学名誉教授北垣宗治氏曰く、勤勉で真面目、そして正義感がありながら控え目なところが但馬人を想像させると言う。私も川崎尚之助を一言で「一途の男」と評したい。
ただ、この調査をしていて思うことがある。今回の調査は運よく出石藩川崎家の末裔と知遇を得た。そして出石の菩提寺が所蔵している墓石台帳に川崎尚之助と同没年月日が刻まれた墓石が存在した。その後、その場所を発掘するに至って、これは回想するに常人の出来る域を凌駕していた。この一連の状況には私も何か感じるようになった。その後、いくつも史料が発掘され、これは何か見えないものに衝き動かされている、もしや川崎尚之助の霊の存在さえ想起するようになった。最近になって昭和四十六年(一九七一)にはなかった川崎尚之助の墓柱が一昨年の四十四年(一九六九)には写真でその存在が確認できた。こうして未だ続々出てくるのは何かしらの力が私を動かしているように感じてならない。もちろんこの調査が彼の供養になるのならブームが過ぎようと調査は継続したいと思う。
のちに八重が鬼籍に入ったとき、六十年振りに尚之助と会い、あの世で歓談したであろう。その話を同じく私も鬼籍に入った際、取材に伺うつもりだ。それはそれで今後の楽しみにしたいと思う。
あさくらゆう
歴史研究家 東京都出身
新選組研究同人、三十一人会副会長、茨城地方史研究会、咸臨丸子孫の会会員
主に幕末維新期の人物史を執筆
今回の「川崎尚之助と八重」(知道出版)で新島研究論文賞を受賞
豊岡市より感謝状を授与される