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第17回 八重と襄、そして蘇峰

 新島襄の見果てぬ夢、命をかけた同志社大学設立運動を、愛弟子の徳富蘇峰の眼から描く――私は、そんな大それたことを企て、小説『ジョーの夢』を上梓した。

 ただ、編集者は念を押すのを忘れなかった。
「八重のことも、きちんと描いてくださいよ」

 私は(そら来た)と思いつつ、愛想笑いを浮かべたのだった。
「もちろんです。大河ドラマの主人公なしにこの本が売れるわけない……ですもんね」

 しかし、ホンネを申せば、八重ばかり注目を浴びるのはおもしろくない。〝新島リスペクト〟と〝新島ラブ〟では、蘇峰大先輩に負けず劣らぬと自負する私にとって、八重はあくまでも「新島襄の妻」であってもらいたい。
同志社時代の蘇峰は、八重の型破りな言動を事あるごとに攻撃している。大胆な洋装や、夫に怖じない態度などにカチンときて、「鵺」よばわりしたエピソードはつとに有名だ。
私には、蘇峰の気持ちがナンとなくわかる。〝新島襄教徒〟たる蘇峰にとっては、八重が目ざわりでならなかったのだろう。
私も胸のうちでボヤいた。
「新島先生は、ナンギな嫁はんをもろてしもたなあ」
ところが蘇峰の資料をあたっていくうち、彼の心境ばかりか、私の心象も変化していった。蘇峰は明治のマスコミの寵児となり、妻をめとって子をなし、齢を重ね、何より同志社設立運動を通じて襄と濃密な関係を築くうち、八重の存在の大きさを理解していく。
新島襄は温厚篤実、生マジメな人柄だったけれど、内にはラディカルかつエキセントリックな面を抱えていた。蘇峰いわく、襄は「満身これ涙、満身これ火といふが如き人物」(『蘇翁感銘録』)であり、「熱情なる猛獣を、意志の金鎖で繋いでゐた」(『日本精神と新島精神』)。そんな襄を八重もこう追憶している。
「随分気の短い人で、少し気に入らないことがあると、ぢき顳顬(こめかみ)に青い筋があらわれます」

 同志社は、京都府庁や一部の文部官僚から意地悪され、世の人々にも邪宗門の学校と誤解された。学校経営は苦難の連続だし、何より校長の健康問題は深刻だった。
襄は、外でこそぐっと不満や不安を抑え込んでいたが、八重の前では素のままをさらけだした。八重の八重たるところは、それを笑顔でいなしてしまうところだ。
「あなたが怒ってらっしゃるのに、私までが御相伴して怒っては仕方がないではありませんか」
カッカとする襄だが、愛妻の態度に「ウム、確かにそうだね」と頬をゆるめてしまう――。
こんな実情を知り、さしもの蘇峰だって「新島先生夫人にはかなわない」と痛感したことだろう。ついでに私も、「さすが!」と唸った。 そうなると、小説の中の八重の役割も定まってくる。お転婆で女丈夫、歯に衣を着せないけれど、誠心誠意、全身全霊で夫を愛した女性として描いた。やはり、襄と八重は互いにベターハーフなのだ。
加えて襄にも、八重の母性本能を刺激し、まもってあげたいと思わせる魅力があったはず。彼は妻ばかりか、アメリカの母たるハーディー夫人スーザンやM・Eヒドゥン女史、シーリー教授夫人のエリザベスなどなどから、ひとかたならぬ愛情を注がれている。それは、四人の姉のもとで育った襄ならではの、女心をつかむキラーコンテンツだった――新島先生、僭越な憶測をしてごめんなさい!


 新島襄の47年に及ばぬ人生において、同志社英学校開校から大学設立運動へいたる15年間は、まさに激動の日々だった。襄は蘇峰の心強いアシストを受ける一方で、八重という骨太なパートナーに感謝し続けたことだろう。

 大学設立の夢を追いつつ、八重の豊かな胸もとに抱かれて逝った校祖の最期を想うたび、私はその情感の深さに感嘆してしまうのだ。
増田晶文(ますだ まさふみ)

作家
1960年大阪府出身、79年に同志社大学法学部法律学科入学

主な作品は、新島襄と徳富蘇峰を主人公にした『ジョーの夢』(講談社)をはじめ、
『果てなき渇望』、『うまい日本酒はどこにある?』(ともに草思社)など。

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増田晶文
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