日清戦争(明治27年8月1日宣戦布告~同28年4月17日講和条約調印。以後、明治は略)で初めて陸軍が看護婦(現在は看護師であるが、論旨での必要上この用語とする)を採用するのであるが、これ以前の戊辰戦争時、北陸の軍陣病院での傷病兵の介抱は男性による事が多く、患者には一対一を原則として世話しており、女性が介抱に雇われるのは若い女子が多く、現地妻的存在となって妊娠した例も6件報告されている。横浜や東京での軍陣病院でも患者の横暴に手を焼いて、介抱女なら、おとなしくなるかも知れないと募集したが集まらず、やむを得ず、髪を※「ジレッタ」結びにした姐さんに介抱させたら、さすがの、負傷自慢の我ままな患者達も静かになり、案外うまくいった、という話も伝わっている(※岩波文庫『近世風俗志(守貞謾稿)』(二)p.226)。当時の病院規則では、介抱女は四十歳以上、四十歳以下の女性は病院への立入禁止である。
上の如き状況を引きずっての日清戦争時、陸軍予備病院(軍陣病院)への看護婦の導入である。看護学を修め実習を了えた有資格の看護婦は20年代の少し前くらいから育ち始めていたのであるが――新島襄が校長の京都看病婦学校も、その一つ――男女間の風紀の乱れを恐れた、時の野戦衛生長官・石黒忠悳(弘化2~昭和16年。軍医制度確立者)は日本赤十字社(以後、日赤と略)病院監督・高山盈(天保14~明治36年。備後・福山藩士・宣直妻)を呼び出し、予備病院へ派出する日赤看護婦の取締を託するが、彼女は覚悟は、と問われ、万一、不品行等の失態あらば一死を以て償わん、と応えている。
四十九歳の八重は、これに打って付けの存在として、即ち、日赤京都支部派出の救護班総勢72名うち、看護婦53名の看護婦取締(副取締に高木ハル、山室サタ)として、広島市内の八帖間4室の民家を拠点にして看護婦と起臥を共にし監督且つ救護にも従事する。
広島陸軍予備病院は本院と第一~第四の分院から成り、八重は第三分院で、現、国泰寺高校南側10万㎡強で最も広く、42棟中、11棟が伝染病棟(他に、第一分院に4伝染病棟)で、低湿地にあり排水悪く井戸水は悪臭があり、飲用不可の衛生環境良好とはいえない分院であった。飲用水は、今の原爆供養塔北の太田川から汲み上げていた。八重達は、27年11月4日~28年6月18日迄勤務したのである(同年12月31日閉院)。
日赤派出の全看護婦のうち、4名が伝染病に罹って死亡されているが、内、3名までも京都派出看護婦の方々で、なかでも、岩崎ユキ女は十八歳。石黒忠悳もその『懐旧九十年』に哀惜の念を記している。
看護婦副取締・高木ハルは日赤病院で正規に看護婦資格を取得(第2回卒)しており、京都派出救護班の看護業務は彼女が中心である。
この戦後の叙勲であるが、石黒忠悳は特別な思い入れがあり、普通なら看護婦取締は勲八等であるが、これではふさわしくない、として勲七等宝冠章(宝七と略, 以下同様)にしたと伝えられている。以下に叙勲者の氏名を挙げておく。
宝七・金百五十円 | 高山盈(日赤本社看護婦取締)。 |
宝七・金七十円 | 新島やゑ。 |
宝七・金五十円 | 大久保てる(日赤本社看護婦副取締)。 |
宝八・金三十五円 | 大越たま、大内かめ、今井わか、高木はる(ハル、京都)、川村もと、俊野いわ、秋間ため。 |
宝八・金二十五円 | 藤井よし、石毛ちよ、三好きく、中崎ひで、森川かく、香椎つね。 |
以上、計16名である。当時、広島陸軍予備病院で救護活動に従事した篤志看護婦の方は33名知られているが、叙勲は八重一人である事を特記しておく。
広島へ派出された京都看病婦学校関係者の氏名も判明しているので挙げておく。
大口(黛)清志(キチ) | 第4回卒 (24年6月) | 日赤広島支部派出。 |
早川くら | 第7回卒カ(27年度卒) | 同 上 |
岡本たつ | 同 上 (同 上) | 日赤京都支部派出。 |
田中さだ | 同 上 (同 上) | 同 上 |
小泉みき | 同 上 (同 上) | 同 上 |
松本ちか | 当時在学生(29 年 卒) | 同 上 |
東 たつ | 同 上 (同 上) | 同 上 |
以上7名の方々が、八重の呼掛けに応じての事か否かを証する史料は未見である。看護婦の募集・派出は日赤の業務ゆえ、八重の関与の程は明らかでないからである。
当時、この学校の宣教スタッフのタルカット(Eliza Talcott。神戸女学院の前身・神戸ホーム創設者)は第三分院の近くに寄留して傷病者慰問のため、書画や花一年分を寄贈している。また、同志社神学校教授・ケーリ(Otis Cary。同志社大学文学部教授で同名の故・ケーリ教授の祖父)も予備病院を訪問している。
日露戦争(37年2月10日宣戦布告~38年9月5日講和条約調印)での八重の救護活動の詳細は他日に譲るが、大略を記しておく。日清戦争時とは、全く様変わりしてしまったという事である。
篤志看護婦人の叙勲は以下の通りである。
勲四等宝冠章(宝四と略、以下同様) | 11名(全員当時の華族夫人)。 |
宝五 | 30名(4名華族夫人。他は各界有力者夫人、その中に京都支会からは唯一人、阿武春子〔ハル〕陸軍少将夫人)。 |
宝六 | 48名(全員華族外。京都支会からは5人、八重もその一人)。 |
宝七 | 0名(日清戦争時は最高位で、篤志看護婦としては八重一人)。 |
一方、看護婦(有資格)の叙勲は宝七、宝八を併せると2千人くらいである。日清戦争時は15人。
この事は、陸軍の動員数が日清戦争では約24万、日露戦争では約110万といった違いや、軍事予算の桁違いの差(後者は国家予算の7倍弱)から見えてくるように、看護婦の軍への導入の心配など時勢上、些事となり、国の存亡の危機感と一体感が、はかり知れず大きくなり、その結果として、戦勝への安堵と昂揚感が、この叙勲ラッシュに顕れているといえる。
八重は身を挺して、大阪陸軍予備病院(旧大坂城郭内)で京都篤志看護婦人46名の中での8名の監督(他に副監督3名)の一人として、78日間(38年1月10日~同年12月20日迄、全勤務期間は285日。一人平均63日間、最長は166日間)、傷病者の救護に黙々と――37年7月には京都大学附属病院の前身・医科大学医院で外科患者の看護の実習に迄出かけて―― 従事、主として、患者の代筆等、身の回りの世話をしていたのである。齢六十の八重である。(了)
竹内力雄(たけうち りきお)
元同志社社史史料編集所(現、同志社社史資料センター)職員。
元明石短期大学講師。
論述
「山本覚馬覚え書」(一)~(四)(『同志社談叢』)、「川崎尚之助攷」(『同志社時報』136号)、「『西洋事情』各国々情訳出原本考」(『福澤諭吉年鑑』)、他。
※写真は筆者在籍当時、同志社社史史料編集所があったクラーク記念館。
2013年4月撮影