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「新島足跡ツアーを開催して」

新島襄の函館足跡ツアー(6月13日)は、私には初めてであった。これまで、もちろん一番多いのは、キャンパス・ツアーである。ついで、ボストンを中心とするニューイングランドが3回、群馬県安中とヨーロッパ(ドイツ、スイス、イタリア)がそれぞれ1回だった。

今回の参加者は27名。その中には、地元の函館市民も混じるが、大半は市外、あるいは道外の方で、なかには熊本から来られた方もあった。私自身は、すでに8回くらいは来函してはいるが、今回のために直前の下見が出来なかったのが、ガイドとしては辛かった。
同志社フェアin函館
ともあれ、バス一台を仕立てて、函館駅前を10:30に出発。最初は、函館ウォーター・フロント計画によって2002年に波止場に設置された新島のブロンズ像を見学。新島の装束や「記念撮影」というタイトルに、多少の違和感が伴う。そこから歩いておなじみの密出国の記念碑に向かう。ヨットハーバーである「緑の島」が、碑の背後に出来たので、新島当時の密出国のイメージが、わきにくくなっている。島と陸を結ぶ橋が、「新島橋」と銘打たれたのは、新島に対する配慮から、と聞いている。
今回の新発見は、相馬倉庫の一角が更地になっている点だ。見通しが良くなっているのに、驚く。跡地が公園か緑地帯になってくれるといいのに、と願う。今までは、倉庫群の隙間に押しこまれたように碑が立っていた。

碑の近くにあるコーヒー・ハウスJOEは、昨年は休業であったが、今年はオープンしていてうれしかった。建物自体も由緒ありそうである。うれしいと言えば、予定になかった函館丸も見学できた。日本人が初めて製作した洋式帆船である。新島の密出国を助けた福士成豊と父(船大工)の続豊治が、製作に携わった。

福士の墓のある称名寺と隣の実行寺(彼の父の墓がある)を通り抜け、栄坂を登る。元は神明坂と言われたように神明社が中腹にあった。今は、坂の付きあたりに山上大神宮となって鎮座する。案内板には、第8代宮司の沢辺啄馬の名前だけが記されている。さすがに坂本龍馬のいとこだけのことはある。新島に協力的で、福士を紹介してくれたのが、沢辺である。

新島がニコライ神父の許を去ってから、沢辺はニコライに近づく。神官として邪教を排斥するつもりが、「ミイラ取りがミイラになる」。日本人初のハリストス正教神父になり、新島がアメリカから帰国したころは、仙台にあって盛んに伝道に従事していた。

一番広い基坂に出て、武田塾跡から奉行所跡(今は元町公園)に向かう。武田塾に入るという名目で江戸を出ることを許された新島であるが、来てみれば、武田先生は入れ違いに江戸に発った後であった。塾頭の萱沼精一郎(長岡藩士という)が、骨折ってくれて、ニコライを紹介してくれたのが、来函して二週間後であった。
同志社フェアin函館
元町公園には、歴史写真記念館があり、新島の写真も一枚、展示されている。

この公園に建てられていた奉行所は、昨年、巨費で再建され、五稜郭のど真ん中に立つ。

次いで、ハリストス教会である。新島は約40日、ここにあった司祭館あたりに住み、ニコライの家庭教師をしながら、ロシア人から英語を学ぶ生活をしていた。目の治療をしてもらったロシア病院もこの敷地にあったという。
昼食は、五島軒でとった。福士の妹夫妻が始めたという函館最古のレストランである。4代目の社長から、展示コーナーの説明を受けた後、名物のカレーをいただく。午後は、「北海道のダビンチ」こと、武田斐三郎が設計した五稜郭を訪ね、タワーからの眺望を楽しむ。土方歳三人気にあらためてびっくり。ついで、松陰町の函館千歳教会を訪れて、井石彰牧師(同志社大学院神学研究科修了)から、教会の由来を聞く。教会に大切に保管されている新島襄の遺髪も見せてもらう。函館を出た新島が、上海あたりでおろしたちょんまげの一部であろう。

最後は、遺愛女子中高を見学する。新島は、二度目の来函の際、八重夫人ともども、遺愛の宣教師から食事に誘われている。場所は、ここに移る前、すなわち元町(今の遺愛幼稚園)である。教派を越えての交流が盛んだったことが、分かる。そう言えば、今年の卒業生の進学先が、廊下に張り出されていたが、そのひとりは、「同志社大学生命医科学部」であった。

神学部 本井康博教授