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道なき道を切り拓き 不屈の「志」で報道の現場に立つ
Cross Talk 『志』その先へ-卒業生・修了生対談-
嘉藤 奈緒子 氏
株式会社チューリップテレビ アナウンサー。2020年3月に同志社大学社会学部卒業後、TBS系列局である「テレビユー山形」でのアナウンサーを経て、2023年4月に地元・富山の「チューリップテレビ」にアナウンサーとして入局。現在は「N6」キャスターや「ミタイノコレクション」リポーターなどを担当し、ニュースや地域の情報を通じて、富山の魅力を幅広く発信している。
新島襄の理念に導かれ 転入学でつかんだ同志社での学び
- 小 原
- 「『志』その先へ」シリーズでは、同志社大学の卒業生・修了生との対話を重ねてまいりました。本日は嘉藤奈緒子さんをお招きしております。嘉藤さんは富山のご出身で、2020年3月に本学社会学部メディア学科を卒業されました。卒業後はテレビユー山形でのアナウンサーを経て、2023年4月に、地元富山のチューリップテレビにアナウンサーとして入局されました。現在は「N6」キャスターや、「ミタイノコレクション」のレポーターなどを担当されています。まず同志社大学に入学された経緯をお聞かせください。
- 嘉 藤
- 小学5年生の頃に放送委員会に入ったことがきっかけで、漠然とアナウンサーになる夢を持ちました。高校では日本史を選択したことで、歴史的背景の多い京都に興味を持ったんです。近現代になると新島襄の話も出てきて、「京都」「同志社」というワードに惹かれていきました。また、アナウンサーになる上ではメディア学を学んでおきたいと思い、そのすべてが揃っているのが同志社大学だったということです。
- 小 原
- 新島襄の名前に、なぜ関心を持たれたのですか。
- 嘉 藤
- 岩倉使節団に参加するなど、新島襄の名前が他の歴史上の偉人よりも目に留まる回数が多かったこと、また、日本のリーダーを育てる場所をつくりたいという同志社英学校の設立理念や、自由な教育、思想に、自分の学びたい環境があると感じました。
- 小 原
- 高校生の早い段階で進路がはっきりしていたということですが、すぐ同志社に行けたわけではなかったと伺いました。
- 嘉 藤
- 高校3年生で同志社大学を第1志望にして受験しましたが、不合格でした。諦めきれず、親に無理を言って予備校生活を1年送ったんです。再度同志社大学を受験しましたが、家庭の事情で急きょ地元の国立大学の後期試験を受けて合格し、そちらに1年間通いました。実は入学前に父が「一度入ってしまえば、その後はどんな選択をしてもいい」と言っていて、その言葉が印象に残っていたんですね。そこで入学後すぐ編入・転入に向けて勉強を始め、1年生の冬に同志社大学の2年次転入学試験を受験し、無事合格できたんです。父に話したら、「行っておいで」と快く言ってもらえました。
- 小 原
- ご両親も娘の執念みたいなものに押されて、認めてくださったのでしょうか。
- 嘉 藤
- そこまでして同志社に行きたいんだという熱意を感じ取って、送り出してくれたのかなと思います。
メディア学と同志社スポーツアトム編集局で報道力を培う
- 小 原
- いろいろな入学方法がありますが、一つがだめでも別のチャンスがあるのは素晴らしいことですし、必要だと思います。さて、晴れて入学された後、勉強はだいぶ頑張られたのですか。
- 嘉 藤
- 国立大学の経済学部で取得した科目の単位を教養科目として認定していただいたので、同志社での3年間はジャーナリズム論から広告関連まで、メディア学に関する科目をひたすら履修しました。アナウンサーという仕事に直結しないものも含め、きっとどこかで生きてくるだろうと思い、楽しく学ばせていただきました。
- 小 原
- 現在のお仕事に活かされているなと思う授業があれば教えてください。
- 嘉 藤
- ジャーナリズムに関する科目で、報道のされ方によって見る側の捉え方がまったく違うものになることを、実際のニュース映像などを使って比較する授業が特に印象的でした。実際に私は今、報道記者やディレクターの仕事も兼務しています。伝え方、映像の切り抜き方、言葉一つもそうですが、どう伝えたらよりよく伝わるか、また、編集によっては間違って伝わってしまうかもしれないことを考える機会が毎日のようにあり、今の仕事に直結する授業だったなと思います。
- 小 原
- 同じ出来事があっても、どうそれを語るか、どこに重きを置いて表現するかによって、受け手の印象は大きく変わってきますね。報道上の表現が行き過ぎてしまった結果、特定の個人を傷つけることは、やはり起こっています。メディア側は当然それを分かっているのでしょうけれども、繰り返されている。プロであっても緊張感を失うと、ミスリードなど本来してはいけない事をしてしまうのだなと日常的に感じます。
- 嘉 藤
- やはり人間が伝えるものなので、例えば政治家の一つの言葉を切り抜いて伝えたことが、間違った方向や発言者の意図とは違う形で伝わるパターンもあります。本当に気をつけなければいけないと思います。
- 小 原
- より多くの人がチェックに関わる方が安全ですね。
- 嘉 藤
- 地方局は人数も少ないですし、個人にかかる責任は、より重いです。
- 小 原
- 学生生活の中で、京都の伝統などに触れるような事はされていましたか。
- 嘉 藤
- 京都の神社仏閣を本当にたくさん巡りました。アルバイトをしていた京都市内のカフェでも、各国から観光に来られた方々と接する機会があり、それも京都という観光地ならではの経験でした。
- 小 原
- 京都は非常に魅力的なまちだと思います。古いものもあるし、大勢の外国人が来る国際都市という側面も持っています。比較的狭いエリアの中にいろんなものが密集しているので、自転車に乗ればあちらこちらに行けますね。
- 嘉 藤
- 当時は、(キャンパスのある)今出川近辺に住んでいたので、自転車で金閣寺や北野天満宮に行ったり、鴨川に遊びに行ったりしました。いろいろな楽しみ方が京都にはありますね。日本史が大好きだったので、教科書で学んだ歴史的建造物なども身近に触れられて、京都を満喫していました。
- 小 原
- サークル活動などはされていましたか。
- 嘉 藤
- 体育会の「同志社スポーツアトム編集局(以下、アトム)」に所属していました。
- 小 原
- 体育会のスポーツ新聞ですね。
- 嘉 藤
- はい。同志社大学にあるすべての体育会クラブの取材をアトム局員で行います。私はバドミントン部とスキー部、あとはサブでラグビー部の担当でした。担当クラブの試合は基本的にすべて行かないといけないので、カメラを持って全国各地を駆け回りながら、取材して原稿化して、ウェブにアップして…という日々でした。
- 小 原
- アトムを選ばれたのは、将来メディアの世界で働きたいからという動機付けが大きかったのですか。
- 嘉 藤
- そうですね。報道に携わりたいと考えていて、地方局ではアナウンサーが記者の仕事もしていると分かっていたので、直結する事を学生時代にできればと思っていました。私自身も小中高ずっとプレイヤーとしてスポーツをしてきたからこそ、「スポーツ×メディア」という活動を知った瞬間に、入部を決めました。
- 小 原
- バドミントン、スキー、サブでラグビー。それぞれ結構試合がありますから、大変ですね。
- 嘉 藤
- バドミントンなら一球一球、どんなプレーだったかを見ながら写真を撮り、スコア表を書き、試合展開をメモしていました。それを一人で行うので本当に大変でしたが、選手のかっこいい一瞬を切り抜けたときの達成感はすごかったです。雪山でのスキー取材も大変で、体力的にも精神的にも強くなった部活でした。今テレビ局で報道記者としても働いているので、本当に直結する経験でした。アトムに入って良かったなと思います。
- 小 原
- アトムでの経験を通じて、タフさみたいなものが身についたのですね。
- 嘉 藤
- アトムがあったからこそ、今の自分があります。
- 小 原
- 大学全体が盛り上がっていくためにも、大学スポーツはすごく重要な役割を果たし得ると思います。その一翼をアトムが担ってほしいですね。ただ最近少し心配なのは、アトム新聞を手に取ってスポーツに関心を持つ学生さんが減っているのではということです。
- 嘉 藤
- 当時の私たちもなかなか受け取ってもらえず、活動の厳しさを感じていました。新聞という紙媒体自体を若者が見なくなってきましたし、テレビも同様です。スポーツに興味を持っていただく機会が減っていますね。
- 小 原
- 先日の世界陸上やバレーボールの国際大会など、皆さんが関心を持つ競技が続くと、国民的な関心度がグッと上がりますね。そこで関心を持てば、今度は応援に行こうという気持ちになる。大学スポーツもそうです。それぞれの競技を学生が応援してくれるかどうかで、選手のモチベーションも変わってくると思います。
- 嘉 藤
- だからアトムの取材に行くと、選手の皆さんはとても歓迎してくださいました。アトムの紙面に大きく載ることが一つの目標だと言ってくださる選手もいました。同志社大学では素晴らしいスポーツ選手がたくさん活躍していますし、もっとスポットライトを当てて伝えていけたらいいですね。
10度目の最終面接でつかんだ夢 地元局には「直談判」で就職
- 小 原
- さて小学生の頃からの夢だったアナウンサーになるため、様々なご苦労もあったのではないですか。
- 嘉 藤
- アナウンサーの就活開始時期は早く、3年生の春からインターンなどがあります。そこで、地元の大学に入ったときから東京のアナウンススクールに通い始めました。京都に来てからも、就職活動のピーク期は月に3、4回、毎週末夜行バスで東京に行き、土・日曜合わせて20時間以上のレッスンを受けていました。そして北海道から沖縄まで80社以上にエントリーシートを出し、面接に呼ばれたのが20社ちょっと。そこからも多い会社で5次試験まであり、日々全国を駆け回る生活でした。10度目の最終面接でアナウンサーとしての内定をいただいたのは、4年生の秋でした。一番は地元のテレビ局に入りたかったのですが、ご縁がいただけず、山形県のテレビ局にご縁をいただいて3年間勤務しました。
- 小 原
- 地元の富山に戻りたいというお気持ちは、お持ちだったのですね。
- 嘉 藤
- 最初から強くあったわけではなく、徐々に強くなっていった感じです。2020年4月、山形のテレビ局に入社した途端にコロナの緊急事態宣言が出たので、なかなか外出もできませんでした。会社の人しか知り合いのいない環境で、家族や地元の友だちの顔が浮かぶ機会が徐々に増えていきました。緊急事態宣言が解除され、ようやく帰省できたときに見た立山連峰が、本当にきれいで圧巻で。やっぱり富山が好きだなと心が打たれる瞬間が帰省するたびにあって、京都と山形で6年離れている間に富山への思いが強くなっていきました。
- 小 原
- 外の世界に出たからこそ、改めて富山の良さに気づくことができたのですね。
- 嘉 藤
- そうです。ただ私が富山で働きたいという気持ちになったとき、地元のテレビ局では採用試験がなかったんですね。しかし、道がないなら自分で切り拓けばいいじゃないかと思い、富山県の民放テレビ局に一つずつ電話をしまして、直談判しました。それで今のテレビ局が面接の場を用意してくださり、内定をいただいたんです。
- 小 原
- ガッツがありますね。
- 嘉 藤
- 浪人、退学、転入学を経験した今までの道のりがあったからこそ、次も道がなければ自分で探せばいいじゃないかと思えたんですね。目標を叶えるためには何か行動しないと達成できないので、思い切って本当によかったなと思います。急に電話をしたことも、ガッツを感じていただけたのかもしれません。
人災害報道を通して深まった使命感
- 小 原
- 素晴らしいですね。山形でのご経験を含めると、アナウンサーは6年目。今までのお仕事を振り返って、いかがですか。
- 嘉 藤
- アナウンサー1年目の頃から、基本的には報道に携わっていました。新人の頃、山形県で豪雨があり、50数年ぶりに最上川が氾濫する大きな災害があったんですね。取材をする中で山形県民の方々が、その前に発生した熊本県の豪雨被害報道をテレビで見ていたから、すぐに避難しようと思えたと言っておられました。山形県の被害は大きかったのですが、幸いなことに亡くなった人はゼロ。報道が避難のきっかけになったんだなと学びました。
- 小 原
- 正しい危機意識をテレビが持たせてくれたのですね。
- 嘉 藤
- 有事の際に自分が伝えることがきっかけで、誰かの命を救えたり助けになったりする。それに対する使命感、やりがいを感じて、やはり私は報道をやりたいんだなと再認識しました。そこからは報道一筋で、災害報道に携わるたびに知識や経験を積み重ねていきました。2024年に能登半島地震が発生したときも富山にいたのですが、震度5強の揺れには本当に怖い思いをしました。もっと震度が大きかった石川県の能登半島の人たちはどんな思いをしているのだろうと頭をよぎりました。テレビを通して見た能登半島は甚大な被害が出ていて、伝える立場にいながら言葉が出てきませんでした。富山県は氷見市の被害が一番大きかったので、そこの取材もしつつ、地震発生から1カ月後の2月1日から1週間、TBS系列の応援団として、局を代表して能登半島で取材をしていたんですね。1カ月経っても瓦礫の山という状況で、被災地の方々から「この現状をとにかくたくさん伝えてほしい、伝え続けてほしい」という言葉をすごくかけていただきました。メディアはやはり、このような災害が忘れられないために報道しているのではと思いました。アナウンサーを6年近くする中で災害報道に多く関わってきて、そういう考えがより強まってきたところです。
- 小 原
- 報道の現場にいたいという思いの中でも、特に能登半島地震のような大きな自然災害の経験が、ご自身の中で今、非常に大きいウェイトを占めているのですね。
- 嘉 藤
- そうですね。豪雨災害と能登半島地震が一番、私の使命感をかき立ててくれていると思います。私たちは限られた時間で取材をしますが、被災地の人はずっと災害現場での生活が続いたり、仕事を失ったりします。それが続くんだということを実際に体験したからこそ、いろんな方に状況を定期的に伝えることが本当に大切なのだろうなと思いますし、引き続き報道に携わる上でそこは大切にしていきたいです。
道がなければ自分でつくり 悔いのない学生生活を送ってほしい
- 小 原
- よく分かりました。これまでの歩みを伺い、ご自身で道を拓く強さや、ご自身の関心をしっかりと掘り起こして形にする力がおありだと感じました。このシリーズでは「志」を重要なテーマにしています。新島襄は高い志で社会をより良い方向に変えていくような人物が、同志社から出てほしいと願ったと思います。改めまして、嘉藤さんの志をお聞かせください。
- 嘉 藤
- 「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という言葉がありますが、それを常に頭の中で唱えていました。浪人、転入学、直談判で今の会社に入ったこともそうです。遠回りをしても、何かを達成するために真っ直ぐ突き進む。「道がなければ自分でつくればいい」という精神で常に生きています。それが志です。
- 小 原
- 志が高くないと、障害物が目の前にあると諦めてしまいますね。嘉藤さんは志を高く持つことによって、自分で道を拓いていかれたのですね。
- 嘉 藤
- 目標を叶える段階で失敗して挫折する人が多い中で、とにかく諦めないことと、道を切り拓く力がすごく大切だなと思います。正解のない世の中なので、何もないところからでも何かをつくり出したり、自分なりの形を見つけてつくったりしていけばいいのではないでしょうか。
- 小 原
- これからの社会にとって、どういう人物が求められるとお考えですか。
- 嘉 藤
- 環境がどんどん変わり、多様化が謳われる世の中なので、皆さんの個性が生かされるべきだと思っています。私は日本画家の家系で育ち、絵が得意なのですが、それを周囲に伝えると、絵のお仕事をいただく機会が増えました。好きな事を信じて周りに発信し、行動すれば、意外なところでそれが形になることがあります。「好き」を素直に周りに伝えられる人が求められるのではと思います。
- 小 原
- 自分が何を好きなのかをまず分かっていることが必要ですし、それを自分の中に留めるだけではなく、他の人にも分かりやすいように伝える人が増えてくると、良い作用をお互いに及ぼすと思うんですね。そういう事を自由に言い合える関係性は素晴らしいと思います。そのような社会ができてくると、今よりもっと良くなるのかなという気がします。
- 嘉 藤
- 何でも仕事にも生きると思いますし、趣味の程度だと思っていても、どこで花開くか分かりません。少しでも好きな事が見つかれば、あとは行動力です。
- 小 原
- 最後に、同志社大学に期待すること、同志社大学の学生に対してメッセージがあれば、ぜひお願いします。
- 嘉 藤
- 同志社大学にはさまざまな学部・学科、サークル活動、クラブ活動があり、いろんな志を持った学生さんたちに合わせた環境がすごく整っていると思います。これからもそこを大切にしていただき、学生の皆さんがいきいきと、前を向いて自由に活動できるような環境が続いていけばいいなと思います。学生の皆さんに対しては、この京都という恵まれた地と歴史ある同志社大学という環境を存分にいかして、したい事をし尽くしたと言えるような学生生活を送ってほしいです。私も学生時代に勉強はもちろん、クラブ活動、アルバイト、観光大使やテレビ局のリポーターと、いろんな事をしました。興味ある事にまっすぐに活動すれば、卒業後にそれが仕事やプライベートにと、いろんな場所で生きると思います。自分がこうだと思ったことを、周りに何と言われようと信じて突き進んでほしいなと、強く思います。
- 小 原
- 非常に力強いメッセージですね。今日はどうもありがとうございました。
- 嘉 藤
- ありがとうございました。
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