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History of DOSHISHA #9 〜150年の歴史をたどる〜
海を渡り、異国の地で学問を修め、帰国後、教育に情熱を注いだ新島襄。彼の描いた理想と不屈の精神は、150年という歳月を経てもなお、同志社の魂として脈々と受け継がれています。「150年の歴史をたどる」最終回は、同志社創立者・新島襄の志に迫り、同志社の原点を見つめます。
特別ムービー
元治元年のエクソダス
〜封建社会からの脱出〜
1870年、アーモスト大学に在学中、級友の求めに応じて再現した脱国時の扮装(同志社社史資料センター所蔵)
元治元年(1864年)、21歳の新島襄は函館にいました。函館で外国人から直接学ぶ機会があることを知っていた襄は同年3月、すぐさま上州安中藩に申請を出し、わずか数日のうちに藩主から正式な許可を取り付けることに成功。しかも、1年間の遊学費用まで給付されることになったのです。にもかかわらず、その年の6月には密出国の挙に出ます。当時は、キリスト教が禁じられ、海外渡航も厳しく制限されており、密出国は大罪でした。それは命を懸けた決断でした。故郷の家族や藩の上司などにも責任が及ぶ恐れがあることを覚悟のうえで、海を越えました。命を懸けてまで、襄を海外へと駆り立てたものとは何だったのでしょう。
密出国の1か月前、襄は眼病を患い、ロシア政府が函館に建てた病院を受診しています。1854年に下田とともに開港した函館は、1859年には横浜、長崎とともに貿易を開始。北の港、函館にはとりわけロシアをはじめとした外国人居留地が開かれていました。襄が残した手記『函楯紀行』によれば、ロシアの病院は設備が整い、食事は煎った牛肉や牛肉を細かく叩いて丸め豚の油で揚げたものに、鶏卵スープ。カルテを取り、患者の病状は細かくチェック。薬は順次投与され、しかも治療は身分貧富の差別なく、すべて無料でした。「ヒポクラテスの誓い」を知る西洋の医師には当然のことだったのかもしれませんが、襄には大きなカルチャーショックでした。「予切に嘆ず、函楯の人民多年魯の恵救を得ば、我か政府を背にし却て汲々として魯人を仰かん事を」と嘆息しています。明治維新の前ですから、ここで「我が政府」と言っているのは、当時、函館を統治していた箱館奉行所、そしてその上に君臨する徳川幕府のこと。南下政策を進め、進出先の民心掌握にも余念のないロシアに比べ、日本政府はあまりにも無関心ではないか、と歯ぎしりをしているようです。こうして襄は、息苦しい封建社会の束縛から脱し、まだ見ぬ世界へ旅立つことになるのです。
函館に至る前に、襄は幕府の軍艦操練所や甲賀塾で自然科学などを学んでいます。代数学のノートの表紙裏に、襄が書き付けた漢詩が残っています。「男児生不遂志不如死入黄泉之下」(男児生まれて志を遂げざるは、黄泉の下に入り死ぬに如かず)。十代の襄の心の内には、本人にもまだよくわからない、不定形のエネルギーが渦巻いていたのでしょう。その"志"は、そして、その熱量は、生涯にわたって貫かれました。
常識にとらわれない発想と、未知の世界への強い好奇心、型破りな精神……。封建制度下の日本社会の桎梏を脱し、広く世界に学ぼうとする襄の志は、当時の函館の状況から強く刺激を受けました。襄が敢行したエクソダス、自らの志を貫いた、決死の旅立ち。その先に、同志社の"今"があります。
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本文では、歴史的経緯に応じて「函館」と「箱館」「箱楯」を使い分けています。