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Doshisha-ism

関西ラグビーフットボール協会会長 坂田 好弘 さん

ニュージーランド遠征での4トライなど驚異的な活躍で「空飛ぶウイング」と称賛され
日本人として初めてIRB(国際ラグビーボード)※ラグビー殿堂入りも果たした
世界に誇る伝説のウイング・坂田好弘さんにインタビューしました。

※2014年より「IRB」は「ワールドラグビー」に改称されました。

関西ラグビーフットボール協会会長 坂田 好弘 さん

坂田 好弘(さかた・よしひろ)さん 大阪府出身。大学時代に2度全国制覇、社会人(近鉄)で4度日本選手権優勝。オールブラックス・ジュニア戦で4トライをあげ、ニュージーランド留学でカンタベリー州代表、ニュージーランド学生選抜などに選出される。大阪体育大学(ラグビー部監督、教授)を経て関西ラグビーフットボール協会会長に就任。

入部1週間後の初試合で大学チームを相手に初トライ

山本
ラグビーを始めたきっかけは何でしょうか?
坂田
ラグビーというスポーツを目の当たりにしたのは、京都府立洛北高校の合格発表の日でした。自分の受験番号があるのを確かめた後、ふとグラウンドを見ると、はつらつと駆け巡る選手たちの姿が目に飛び込んできたのです。「こんな競技があるのか!」と強い衝撃を受け、その足でラグビー部の部室を訪ねて入部を希望しました。これがラグビーとの出会いです。中学時代に熱中していたのは柔道です。京都府の大会では決勝戦まで進み、中学生で黒帯も取っていました。あの日の出会いがなければ、高校でも柔道に打ち込み、異なる人生を歩んでいたかもしれません。運命に導かれたような気がします。入部直後に新入生全員で短距離走を競い、私は、50mが6秒フラット。ポジションは走力の求められるウイングに決定しました。入部1週間後にいきなり試合に出ることになりました。まだルールも知らないのに監督からは「ボールを持ったら全力で走れ!」とだけ言われました(笑)その指示通りに必死でグラウンドを駆け抜け、初トライをあげました。その時のシーンは今も鮮明に覚えていますよ。
山本
私も同じウイングのポジションなのでとても関心があるのですが、「イン・アンド・アウト」という技術はいつごろ身に付けたのでしょうか。
坂田
同志社大学入学後の岡仁詩監督の叱咤の言葉がきっかけでしたね。1年生の夏合宿でタックルに来た相手をハンドオフ(手で突き飛ばす)して独走トライを決めた時、「いま、逃げたやろ。ウイングはまっすぐ走れ!」と怒鳴られたのです。その日から「どうすれば、まっすぐに走れるのか」を熟考し、ステップを駆使して相手のバランスを崩して直進する「イン・アンド・アウト」の技術に磨きをかけました。マスターできたなという確信を得たのは3年後、これが私にとって強力な武器になりました。当時の大学ラグビー界は関東では、早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、関西では同志社大学の力が飛びぬけていて、この4大学が覇権を競っていました。「イン・アンド・アウト」を武器に大学1年生と3年生の時に日本選手権(1年時は前身の「NHK 杯争奪ラグビー大会」)に出場し、社会人チームの近畿日本鉄道(以下、近鉄)に勝って2度日本一になりました。
関西ラグビーフットボール協会会長 坂田 好弘 さん
山本
ニュージーランド遠征でオールブラックス・ジュニア相手に4トライ、すごいですね!
坂田
1968年に日本代表チームのメンバーとしてニュージーランドに遠征し、オールブラックス・ジュニア(23歳以下の同国代表)と対戦し私は4トライをあげ、試合も21対19で勝ちました。予想を覆す、歴史的な勝利でしたね。選手個々の体格差は歴然で、フォワード勝負では勝機を見出すことはできない。そこで、当時の大西鐵之祐監督はスクラムを組んだ瞬間にパスを出すという戦法を徹底しました。この作戦が功を奏したのです。確かその試合での3つ目のトライをあげた時だったかな。一瞬、観客席は静まり返ったのです。その後、自分のポジションに戻った時、スタジアムが揺れるようなスタンディングオベーションが起こりました。本当にびっくりしましたよ。
山本
現役を引退した時はどんな気持ちでしたか。
坂田
近鉄に入社したのは1965年です。ラグビー部には10年所属しました。合宿所は花園ラグビー場のメインスタンドの下にあり、夏は全員がここで寝泊まりします。朝練、そして夕刻まで他の社員と同様に仕事をし、その後、さらに数時間の練習という毎日でした。肉体も精神も極限状態の毎日でしたね。私は1975年に現役を引退しました。この前年に全国大会決勝で1点差で敗れ、その悔しさから「あと1年、あと何日練習できるか」を常に考えて練習に取り組んできました。社会人大会では準決勝で新日鐵釡石に引き分け、抽選の末、決勝戦に進み、優勝しました。そして日本選手権では、早稲田大学を破って栄冠を手にすることができました。この日のために1年間考えてやってきたので、試合後のロッカールームでジャージを脱いだ時、ふっと肩の荷がおり、身体が軽くなった感じがしましたね。やり切ったな、と思いました。振り返れば、何かしようと思うときには必ず「人との出会い」がありました。そのどれもが貴重な出会いで、私は常に運があったなと思います。

関西大学Aリーグ初優勝 指導哲学を貫き悲願を達成

山本
監督として苦労されたこと、大変だったことは何でしょうか。
坂田
1977年から大阪体育大学で教壇に立ちながらラグビー部を指導することになりました。選手には日々過酷なほどの猛練習を課しました。強くするためには、それしかないと信じ込んでいたのです。しかし、まったく結果が出ない。4年目までは大学選手権に出場することすらできませんでした。転機が訪れたのは5年目です。関西大学A リーグの試合中に選手が怪我で倒れたのを見て、私は「放り出せ! 直ぐに代わりを入れろ!」と叫んだのです。その時、親しくしていた新聞記者が「放り出せとは何事だ!」と激怒したのです。それで、ようやく自分の間違いに気づいたのです。必死で戦っているのは選手であり、痛いのも苦しいのも彼らだと…。選手が主役なのです。その日から選手一人ひとりの心に寄り添い、選手の自主性を重視し、練習メニューの作成も任せました。これをきっかけに、チームは驚くほど強くなっていきましたね。「やらされている」から「やろう!」へと全員の意識が変化しました。私は選手に寄り添い、常にグラウンドで選手の様子を見守るようにしていました。いいプレーは褒め、形を崩している選手にはアドバイスをしました。その成果が結実したのが1985年の関西大学Aリーグ初優勝です。全勝で迎えた最終戦の相手は過去10年間負け知らずで、全国大学選手権でも3連覇を成し遂げていた同志社大学。その試合の直前にも忘れられない出来事がありました。ウォーミングアップの最中にある部員が後輩にその様子を撮影させていたのです。「なぜ写真を撮っているんだ?!」と聞くと、思いがけない言葉が返ってきたのです。「今日、グラウンドで死ぬかもしれません。これは形見の写真です」。彼はまさに命がけで戦いに挑もうとしていたのです。私は勝利を確信しましたよ。その確信の通り、同志社を34対8の大差で破り、初優勝を飾りました。悲願を達成した最高の試合でしたね。
関西ラグビーフットボール協会会長 坂田 好弘 さん
山本
IRB ラグビー殿堂入りした時の思いを聞かせてください。
坂田
監督として最後のシーズンを迎えた2012年の春でした。第1号はラグビーの考案者とされているウィリアム・ウェッブ・エリス。その後も世界的に名高い方々が選ばれています。私は世界で51番目、日本人初でした。「国際ラグビーボードは、1960年代の世界で最も優れた選手の一人で、おそらく今日にいたるまで日本で最高の選手である坂田好弘氏のラグビー殿堂(IRB Hall of Fame)入りを決めた…」。これが選出理由です。最高の名誉であり、深く感動しました。世界が選んでくれたというのが本当に嬉しい。2007年のフランスワールドカップ開幕式典では「世界のレジェンド」と紹介され、8万人の喝采を浴びました。個人としては身に余る評価をいただきました。これからは日本ラグビーのために少しでも貢献できればと日々思っています。
山本
私は今年ラグビー部のキャプテンになりました。最後にリーダーに必要な資質について教えていただけますか。
坂田
選手はキャプテンの一挙一動を常に見ています。だから、必死で挑み続けている後ろ姿を見せ、その熱意を実感させなければならない。キャプテンは行動で示すことが何よりも大切です。特に勝てない時は何倍もの努力が必要。キャプテンが責任を果たすために必死で努力する姿が試合に出る選手、応援する部員にひろがり、チームの強化につながるのです。また、同志社大学や同志社大学ラグビー部の歴史を知ることも重要だと思います。これは学生だけでなく、指導者も。同志社は新島襄先生が創立して以来、脈々と受け継がれてきた気高い伝統と精神を有する大学です。これらを部に関わる全ての人が認識すれば、ここでラグビーができることに大きな誇りを感じるはずです。新島襄先生は「男子一戦して敗るるも止むなかれ 再戦して止むなかれ 三戦して止むなかれ 刀折れ 矢尽きて止むなかれ 骨砕け 血尽きて止むべきのみ…」という不屈の言葉を残されています。この気迫を胸に刻み、日本一を目指してほしいと願っています。

インタビューを終えて

インタビュアー 山本 雄貴 さん  インタビュアー
山本 雄貴 さん 【商学部4年次生】

同志社大学ラグビー部の偉大なOBで、IRBラグビー殿堂入りを果たされた坂田さんとお話しさせていただく機会をいただき、感謝しています。坂田さんが果敢にチャレンジされてきた姿は、日本のラグビーの軌跡そのものだと思いました。刻んでこられた足跡の一つ一つが私たち後輩にとって大きな気づきとなりました。新島襄先生の不屈の精神、同志社大学ラグビー部の先輩方がこれまで築き上げた伝統を再認識し、同志社大学ラグビー部の誇りを胸に、リーダーとしてチームをまとめていきたいと思います。本当にありがとうございました。

京都府出身。小学校4年生の時に同志社大学で学び、同志社大学ラクビーの大ファンである父親と試合を初観戦。以来、自身もラグビーの世界に魅了される。現在はラグビー部キャプテンとして伝統のチームを率いている。

2019年7月発行
One Purpose198号「同志社人訪問」より

同志社人訪問 動画

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