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第1回 時をこえて、いまこそ語り継がれるべき、近代女性の先駆者
戦後というときの「戦」とは、ふつう第二次大戦を指します。ところが会津ではいまだに明治戊辰(ぼしん)(元年)の会津戦争だというのです。老人、女性、こどもまでもが鶴ヶ城にこもったあの籠城(ろうじょう)戦が、会津の人たちの心に、いまなお深い傷痕(きずあと)をのこしているのです。
火の女となって籠城戦にのぞんだ八重にとっても戊辰戦争は苛酷なものでした。弟を失い、兄は処刑されたと伝えられ、籠城戦では父を失い、最初の夫との別離がまちうけていました。国やぶれ、すがりつくべきいっさいのものを奪われたのです。
天地がひっくりかえるような惨禍にみまわれたとき、いったい人間はどのように処するのでしょうか。 動顚(どうてん) のあまり前途が見えず、 ひたすら過去にとじこもって茫然自失の自分をまもろうとするのか。あるいは苦しみ、悲しみに堪(た)えて、あくまでポジティブに新しい生をきりひらいてゆこうとするのか。
八重は後者のほうでした。過去にとらわれることなく、つねに前をむいて、自分の人生を自分で選択してゆきました。兄の覚馬をたよって京都にやってきた彼女は英語を学び、たちまち洋装・洋髪の女性に生まれかわります。キリスト教にも惹(ひ)かれ、新島襄と結婚、同志社の草創期をささえました。それが洋銃と大砲であの籠城戦をたたかいぬいた八重の維新でした。
まさに近代女性の先駆というべきですが、会津でも、京都でも、あまり知られておりません。事実、八重にかんする史料はきわめて少なく、小説を書こうとして取材していた当時、同志社の社史資料室にも会津にも、まとまったものはありませんでした。
なぜ、語り継がれてこなかったのか。伏線はいくつかあります。落城後に会津をはなれてしまったこと。さらに新政府(薩長)の片棒をかついで兄の覚馬とともに遷都でさびれゆく京都の町おこしに加担している。これは当時の会津の人たちからみれば、ある意味で裏切り行為にあたります。
京都での世評もさんざんでした。キリスト者になって、アメリカ帰りの新島襄と結婚すること自体、白眼視されました。結婚後のふたりの暮らしはすべてアメリカ式で、たとえば八重は襄を「ジョー」とよぶなど、つねに夫と対等にふるまっていました。京雀にしてみれば「なんちゅう嫁はんや」というわけです。「あれではダンナはんがかわいそう」などと悪口の的となりました。さらに襄の死後、八重は同志社とも距離をおいていましたから、同志社周辺からも忘れられるのは自然のなりゆきです。
山本八重、そして新島八重、もっと知られてもいいはずだ。『会津おんな戦記』(筑摩書房刊)『新島襄とその妻』(新潮社刊)を書いたのは、そんな思いからでした。いずれも小説ですが、人間としての八重の真実に迫れたのではないかと自負しております。
奇しくもその八重に光があたりました。NHK大河にとりあげられ、ドラマの主人公になって郷里の会津にも、もどってゆくというわけです。時代の転換期を駈けぬけた彼女の生きざまが、きっと元気をもたらしてくれるはずです。これをきっかけに、京に咲いた会津の華として、ひろく、ながく語り継がれるようになってほしいと希(ねが)っております。
作家:福本 武久(ふくもと たけひさ) 1942年京都市生まれ。
同志社大学法学部卒業 (1965年3月)
小説「電車ごっこ停戦」で第14回太宰治賞を受賞。
主な著書に小説『電車ごっこ停戦』『家族トライアングル』『疾走する家族』『織匠』『会津おんな戦記』(筑摩書房)、『新島襄とその妻』『地の歌人 三ヶ島葭子』(新潮社)、ノンフィクション『「ボランティア」を生きる』(実業之日本社)『夢があるからがんばれる』(PHP研究所)などがある。
ホームページ:「福本武久の小説工房」 www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/