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新島襄は同志社を設立する前後から、「旅の人」といってよいほどよく旅をした。用務は、教会、大学設立募金、静養などであった。
旅は多くの場合1人だったから、留守を守っている八重夫人に、しばしば連絡などの手紙を書いた。その中の1通、明治13年2月25日に岡山から送った長文の手紙の結び近くに、次の1節が見える。
「帰京も段々遅く相成、気の毒に候得共、是も亦主の為、十字架にての一なれば、御さむしくあるも御しんぼう有之度候」
八重の手紙は1通も残っていないので想像によるしかないのだが、彼女は寂しさを訴えたのかも知れない。新島の文面はそう読める。
反面、八重といえば会津篭城戦がまず思い浮かぶし、明治9年に新島と結婚したとき、数え年32歳であった(新島は34歳)。それ故、仕事に明け暮れている旅先の夫に、余計な心配をかけまいと気丈夫さを示すこともあったではあろう。
もう1通あげておきたい。明治23年1月4日、静養先の大磯からの手紙の書き出しである(読みやすくするため片仮名と、むずかしい漢語を日常語に改めた部分がある)。
「昨日も一筆申上候通、御前様の関東に御出の事は考ふれば考ふるほど上出来とは思はれ申さず、西洋風ならともあれ私どもは日本人にして、日本に働きを為す身に有之候はば、 夫婦の間柄よりも親の御事は重んじ申度、殊に84歳にも成られ候御年寄を寒の最中に見捨て、関東に御越し下され候共、御前様にも不安心、又私にも心に甚だ快からず、若しもの事有之候節は実に御互に残念、又世間にも申訳なき次第、又如何にも情として忍び難き所あり」
新島が東京から大磯へ移ったのは、前年12月27日であった。彼は八重あての年賀状に、宿の食事は困るのでなるべく早く来てほしいと書いたのだった。大磯には西洋料理の料理人がいなかったのである。新島は体調がすぐれないと洋食を食べたがった。だが84歳の老母の健康状態がよくないことを知って、八重を家にとどめておきたかったのだ。
その手紙なのだが、これが新島のことばかと疑いたくなる。その前日の八重あての手紙には、「仙台はぎの腹はすいてもひもじふないを学び」などと書いてもいる。
八重のクリスチャン・レディーぶり、モダン・レディーぶりは、すくなくとも教会関係者や近隣の人たちには目立っていたにちがいない。だが、それはまだ表面的なもので、本質的な部分は会津藩の武家で育った古風な女性だったのではないか。人間の本質はたやすく変わるものではない。
新島はそういう部分を突く説得の仕方が八重に対して効果的であることを、体験を通して知っていたのではないかと思う。
河野 仁昭(こうの ひとあき)
1929年 愛媛県生まれ。
元同志社社史資料室長、同志社女子大学大学院講師を兼務。
エッセイスト、日本ペンクラブ会員、すてっぷ詩話会・京都現代文学を楽しむ会代表。
主著:『新島襄への旅』、『京都の明治文学』、『京都の大正文学』その他。