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今からちょうど2年前、同志社社史資料センターでは第38回Neesima Room企画展として「新島八重の生涯―進取と矜持―」展を実施しました。私はこの企画展の準備のために、初めて会津の地に赴きました。以来、会津で必ず足を運ぶ場所があります。八重さんは最晩年に会津若松市内にある大竜寺というお寺に山本家の祖先のお墓を整理し、建立しました。ちょうど八重さんが永眠する前年のことです。
墓標の裏の文字は薄くなり、読みづらくなっておりますが、表には「山本家之墓所」裏面には「昭和六年九月合葬山本権八女京都住新島八重子建之八十七才」と刻まれています。この墓標を見るたびに、強く逞しく生きた八重さんの矜持は会津の人間であることにあったのではないかといつも感じます。
周知のように、八重さんは会津で生まれ、そして会津で育った人物です。戊辰戦争の時には死を覚悟して籠城しました。戦いに敗れ、斗南の地へと向かう兵士の列に男装してまで同行しようとしました。
京都に来た後は、故郷に帰る機会は多くはありませんでしたが、1882(明治15)年に会津を訪れています。この後も、会津高等女学校(現在の福島県立葵高等学校)を訪れたといわれるなど、数度里帰りをしています。逆に、1928(昭和3)年のことですが、会津高等女学校が修学旅行で京都を訪れた時、八重さんは会津藩がかつて勤めた京都守護職の本陣があった黒谷などを案内したという記録があります。
八重さんは故郷だけでなく、会津の旧藩主松平容保にも会いに行きました。1887年のことです。新島襄とともに仙台の東華学校開校式出席と北海道避暑のために京都を発った八重さんは、横浜まで新島とともにした後、一足先に東京へ赴き、会うことはできませんでしたが容保を訪ねています。
旧藩主との関係で八重さんにとって嬉しかったと考えられることがあります。1887年ごろに同志社英学校に容保の実子容大が入学しました。八重さんは会津出身の学生にはひときわ親切にしていたと言われますが、そうであればこそ格別の喜びであったと思います。新島と八重さん、そして容大を含めた会津出身の学生らの集合写真が今も同志社に所蔵されています。結局、容大はすぐに退校することになります。八重さんの心境はいかばかりだったでしょうか。
もう1つ、旧藩主との関係で、八重さんのみならず会津にとって明るいニュースがありました。1928年、容保の孫である勢津子姫が秩父宮とご成婚されたことです。かつて戊辰戦争で錦の御旗を相手に戦わなければならなかった会津藩の人々にとって、このご成婚は非常に大きな意味を持ちました。この時の気持ちを八重さんは「御慶事をきゝて」と題して「いくとせかみねにかゝれる村雲のはれて嬉しきひかりをそみる」という和歌で詠んでいます。戊辰戦争を経験した会津の人々誰もがこのような心境であったと考えられます。
私は、山本家のお墓に墓参するたびに、このような八重さんと会津の関係を思い起こします。八重さんは現在故郷から遠く離れた同志社墓地で眠りについています。だからこそ八重さんの故郷への想いに応え、会津を含めた被災地域にできることを考え、行動していきたいと思います。
参考文献
『会津若松市史18 会津の人物 生きる、風土に育む精神性』会津若松市2005年
『新島襄全集』第8巻 同朋舎1992年
『同志社校友同窓会報』第61号 1932年2月15日発行
小枝 弘和(こえだ ひろかず)
同志社大学 同志社社史資料センター
社史資料調査員