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会津若松城下で生まれた八重は87年の生涯のうち、前半26歳までを会津で過ごしています。この時代、八重がよく知られるのは、会津戊辰戦争で男装し鉄砲を持って活躍したことです。しかし全国的にその名が知られるのは、新島襄と結婚後の京都時代です。会津時代の八重は資料の乏しさもあり、虚実入り混じり、なにが事実なのか分からないことがたくさんあります。
会津藩が降伏、開城したのは明治元年9月22日、戦後、藩士は東京と越後高田(現・新潟県上越市)に幽閉、謹慎の身となりました。婦女子と60歳以上、15歳以下の男子は罪を許されましたが、城下はすべて焼失し、着のみ着のままで住む家はありません。そこで新政府は城下から約14㎞離れた塩川(現喜多方市塩川)周辺の農家を割当て、そこに住まわせることになりました。ただし八重一家がどこに割り当てられたのかは分かりません。中には親類縁者、また自家の使用人を頼った者もいるかもしれません。
八重と母、兄覚馬の娘みねの3人が京都にいる覚馬の元に向かったのは明治4年といいます。この間、明治2年11月には、藩主松平容保(かたもり)の長男、生れて5ヶ月の容大(かたはる)に家名再興が許され、陸奥国において三万石の地を賜わることになりました。その地は斗南(となみ)藩と命名され、翌3年5月から順次、船また徒歩で移住が開始されました。4332戸、17000名余りが新天地を目指して旅立ちました。しかし会津藩領は28万石、対して斗南は3万石、米が取れない土地であり、実質7000石といわれています。これではとても全員連れて行くわけには参りません。そのため6400名ほどが会津に残されることになり、帰農商工の道を歩むことになりました。このうち210戸は斗南藩士の身分をもって会津居残り、三年間は自活生計を営み、年限内に生計が立たない場合は斗南藩に帰藩とされました。また565戸は当分会津に居残り、自活生計をなすとされ、725戸は他府県へ出稼ぎ生計とされました。
八重一家は斗南へは行かなかったことは確かですが、この間の消息はまったく分かっていませんでした。今回八重が注目を浴びることになり、改めて調べてみると意外な新事実が判明しました。
実は会津居残り分の戸籍が旧北会津郡役所にあり、これが昭和元年若松市役所を経て会津図書館に移管されたのです。これを思い出し、その戸籍をあたったところ、八重らの戸籍を見出すことができました。それは2筆に分かれ一つは4人分で「山本権八妻、娵、孫娘、伯母」それぞれ辛未(明治4年)時点での年齢が記されます。娵(嫁)は覚馬の妻うら、孫娘は覚馬の娘、みねです。そしてもう一つが「川崎尚之助妻 辛未二七」、これこそ八重その人です。この二家は「羽前国米沢県管内・城下・内藤新一郎方出稼」と記されています。
そこで米沢図書館に照会したところ、内藤新一郎は「万延元年(1860)11月家督 御螺(かい)吹 一人扶持四石 二二(歳)」の米沢藩士との回答を得ました。しかし山本家との関連は分かりません。断定はできないものの、八重らの出稼ぎ先がこの内藤の可能性は高いと思われます。とすると、両者にどのような関係があったのでしょうか。会津と米沢は男の足で1日半の距離で遠くはないし、上杉家と松平家は近しい関係にあります。内藤の螺役というのもキーワードになるのではと思っていますが、いずれ今後の課題です。また八重の初夫川崎尚之助が通説と異なり、会津藩士であったことを証明する文書も見つかり、機会がありましたらまたご紹介したいと思います。
野口 信一(のぐち しんいち)1949年福島県生まれ。
元会津若松市立図書館館長、市史編纂兼務。
現在、会津の歴史・人物のデータベースなどを主に作成する「会津歴史考房」主宰。
平成23年11月末『詳解・会津若松城下絵図』の発刊を予定。
主な著書:『会津人物文献目録』『シリーズ藩物語 会津藩』『会津えりすぐりの歴史』ほか