- 新島八重と同志社ホーム
- > 八重と同志社
- > 繋ぐ想い
- > 第5回 湯田祥子
今から143年前の1868年、会津藩は大変な戦禍を被りました。鳥羽伏見に戦端を開き、函館五稜郭の戦いで幕をおろした戊辰戦争です。この戦いについては学校で学んだりドラマや小説で取り上げられたりと、様々な形で現代に語り継がれていますので、多くの方々がご存知でしょう。この戦さについて後世の私たちが長い日本の歴史の中で考えようとすると「何百年と続いた武士の世から近代国家へと生まれ変わるためには必要な戦いだった」という見方も出来るかもしれませんが、約一年半にわたった戊辰戦争の中でも会津での戦いは最も過酷で熾烈を極めたと言われており、会津藩の払った犠牲は大き過ぎました。老人から子供まで男女の差なく会津藩の人々は戦い、その戦死者の数は約三千名ともいわれ、その中でも他藩に比べて女性の戦死者が多かったことは大きな特徴と言えるでしょう。
では、会津藩の女性たちが女性の身で戦いに臨んでいった理由は何だったのか、そう考えた時に私はそこに会津女性の誇りが見える気がいたします。
戊辰戦争時に活躍、のちに新島襄の妻となった山本八重は、父権八が藩の砲術師範を務め、兄覚馬も藩校日新館の蘭学所で教鞭をとり兵制の近代化を指導する役を担う、そのような家庭環境の中で生まれました。父や兄の影響を多分に受けただろうことは想像に難くありません。そうして八重は、自然の成り行きで自らも砲兵術に長け、男性顔負けの技術を身につけていたと言われます。後に、飯盛山で自刃した白虎隊士中二番隊士・伊東悌次郎に射撃を指導していたというエピソードが残るほどです。戊辰戦争時も、城下に戦場が移ってくると八重は自ら銃を手に取り戦いに身を投じました。その時には、先に鳥羽伏見の戦いで戦死した弟の形見であった袴と着物を身にまとい、弟になりかわり、主君のため弟のため命の限り戦う決心で城に入ったのだ、と八重自身が後に述懐しています。籠城してからは、自ら銃を手に取り敵を攻撃したり、他の籠城した女性たちとともに傷病兵の看護や炊き出しをしたりと、八重の奮戦は見事なものでした。もちろんこれは八重だけに限らず、籠城した人々皆が命がけで戦っていました。
この八重の例が示すように、武家に生まれた女性として誇り高く生きる、こういった考え方は当たり前のように会津藩の女性たちの心に備わっていたのではないかと私は考えます。だからこそ、平時は家を守り家に尽くしていた女性たちが、戦いの場が会津城下へと移ってくると自らも身を投じて戦うという選択をする、彼女たちもいわば「サムライ」だったのです。実際に戦わずとも異なる形で誇り高き戦いの姿を見せた女性たちも大勢いました。万一負けて敵の虜囚となり恥をさらすよりは、生きて敵の辱めを受けるよりは、味方の兵士たちの足手まといになるよりはと自決の道を選んだ女性も大勢いるのです。これは女性だけではなく子供や老人にも多かったと言われます。壮絶な選択ですが、自らの誇りを守る一つの戦いだったのではないでしょうか。
戊辰戦争時の体験は、後の八重の生き方に大きな影響を与えたことでしょう。夫となった新島襄が病にたおれると献身的に看病し、襄の没後は篤志看護婦として日清日露戦争に従軍しています。サムライとして誇り高く戦い、看護婦として慈愛の心で傷ついた人々を癒す、この八重の姿に私は会津女性としての誇りが見えるのです。八重がその86年の人生の中で大きな絶望から何度も立ち上がり、自分らしさを貫き通し歩み続け、慈愛の心を忘れず誇り高く生きたことを改めて知ることで、私たちもその誇りを受け継ぎ、さらに次の世代へと会津女性の誇りを繋いでいきたいと思います。
湯田 祥子(ゆだ さちこ)
若松城天守閣郷土博物館学芸員
平成17年より若松城天守閣郷土博物館勤務