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第6回 新島八重を育てた会津の教育―なぜ新島は八重を伴侶としたのか

 新島襄は明治8年(1875)3月に父民治に宛てて自分の結婚と女性観について次のように述べている。
 『大坂に参り候上、小子の妻となすへき者も不相見、何れ小子義も生涯妻を娶る事は叶わまじと存候。且日々多事に而中々妻迄は工風も不及申、当分妻の義は延引に可致、乍然此分に而参候へは、日本国中をさがしても小子の意に応ずる者は有まじと心配いたし居り候。少子は決し而顔面の好美を不好、唯心の好きもの者にし而学問のある者を望み申候。日本の婦人の如き(学問)なき女子と生涯共にする事は一切好ましく不存候。(『新島襄全集』3巻、3月7日「新島民治宛」) 』
 冒頭から長い引用となったが、新島は結婚する意志はあったものの、思うように相手が見つからなかった。新島の理想は、美人ではなくても心が良く、学問のある女性であった。日本の女性のように学問の無いものとは生涯を共に出来ないとも述べている。
 N.G.クラークにあてた手紙の中で、当時、新島は体調が思わしくないので、誰か忠実な伴侶(some faithful companion)を求めたいと述べている。新島が、八重と初めて京都で出会ったのは明治8年の春と記している。父民治に宛てた手紙の前後であろうか。新島はこの手紙の中で、八重とすぐさま親しくなりたいと思ったが、その年の11月15日まで結婚しようとは思わなかったと記している。しかし、京都に住むことになって助力者(Helpmeet)無しには生活できないことがわかり、この必要性から翌明治9年1月に結婚することになったと、結婚の経緯に触れている。(『全集』6巻、May,8th76 “To Dr.N.G.Clark”英文書簡)結婚に至る新島の告白を前提に、何故に新島が八重を伴侶として選んだのかということを、八重の人間形成に大きな影響を与えた会津魂から考えてみたい。
 八重の性格を知る資料に「新島八重子刀自懐古談」がある。会津の城に籠城し、戦死した弟の着物を着て、弟の刀を腰に帯び官軍と勇ましく戦った様子が綴られている。そのなかで、八重は自身の性格を形成してきたのは会津の教育にあると述べている。
 会津武士は薩摩武士と並んで独特の気風を持った武士像を確立していた。藩祖保科正之は学問を重んじ、「家訓十五箇条」を定めて、君臣関係の絶対性を説き、武士としての自覚を促がす厳しい道徳的な自己規律を要求した。
 近世の代表的な藩校である会津の日新館でも、「学問の目的は孝悌忠信」と定められており、主君に忠誠を尽くす儒教倫理が強調されていた。為政者としての武士の職分とそれに必要な徳目が説かれた「六科」と、親子や君臣関係や長幼の関係に要求される儒教的な日常倫理を説いた「六行」、および会津の武士として相応しくない行いを説いた「八則」が定められ、会津の武士のあり方が明示されていた。
 また、武士の子ども達は「什」(じゅう)という地域の仲間集団に組み入れられ、規律ある生活を送った。そこでは次のような「什の掟」が定められていた。
 一つ、年長者のいうことに背いてはなりませぬ。
 二つ、年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ。
 三つ、虚言をいうことはなりませぬ。
 四つ、卑怯な振る舞いをしてなりませぬ。
 五つ、弱いものをいじめてはなりませぬ。
 六つ、戸外で物を食べてはなりませぬ。
 七つ、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。
    ならぬことはならぬものです。
 世間には理屈を超えて、人として守らなければならないものがあるということを幼少時から家庭や地域で身を以て教え込むところに会津の教育の特質が見られる。八重はこうした教えを「日新館童子訓」を通して家庭で学んだと回顧している。さらに八重は「師を崇める心なき者などは、幾程学問が出来ても、どうもいかんと思って居ります。保守的で当世には向かないかもしれませんが」(「新島八重子刀自懐古談」『同志社談叢』第二十号)とも述べている。新島がかつて嫌悪した武士的世界に生きる女性に惹かれたのは、新島に欠けていたものを八重が持ち合わせていたからであろうか。晩年の新島はあれほど否定したはずの武士的世界に回帰してゆく。それは、八重が新島に与えた最も大きな影響であったかもしれない。
沖田 行司(おきた ゆくじ)
同志社大学社会学部教育文化学科教授
専門分野は日本教育文化史、日本思想史
近著に、『藩校・私塾の思想と教育』『日本近代教育の思想史研究 国際化の思想系譜』など
沖田 行司
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