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第7回 つくられた「山本八重子」像と新島八重子

 城陥りて後、髪を削りて、尼となり、城市遠き一山寺に住みて、世の中の塵を避けつゝ、心閑(しず)かに戦死者の冥福を修す。
この一文は、幕末戊辰戦争で落城を経験した、ある会津女性のその後を綴ったものです。その女性とは誰か。そう、後に新島襄の妻となった、山本八重子のことです。しかしこの内容が事実と大きく異なることは、いうまでもありません。
大正10年(1921)に、実業之日本社から『少女美談』という本が出版されました。著者は熊田葦城(宗次郎、1862~1940?)といい、報知社(後の報知新聞社)に身を置いた人物。熊田には他にも、『日本史蹟』『幕府瓦解史』『江戸懐古録』他、たくさんの著作があります。ジャーナリストにして歴史に関わる著作物を多く世に問うた点では、同志社を中退し新島夫妻と関係の深かった徳富蘇峰(1863-1957)とも共通しています。冒頭の文章は、『少女美談』の中で「山本八重子戦死者を弔う」という項目において紹介されました。下記はその全文を示したものです(改行部分等は詰めて表記しました)。

山本八重子は会津の人にして、父を権八と曰ふ、明治元年、会津籠城の際、叔母と與(とも)に城中に在り。大敵四方を圍(かこ)みて、城将(ま)さに陥らんとす、叔母『敵に乱せし状(さま)を見するは恥辱ぞ、髪を結ひ直すべし。』と告げて、八重子の髪を梳(くしけ)づれる折柄、敵の銃丸、ビユツと耳元を掠めて過ぐ、八重子思はずハツと驚けば、叔母『其所(そこ)は武士の子にあらずや、死は豫(かね)ての覚悟なるに、銃丸に恐るゝとは何事ぞ。』と叱す、八重子実(げ)にもと心付き、『許し玉へ叔母上、我れながら不覚に候。』と述べて、深く我身の不覚を謝す。落城の前夜、更(こう)闌(た)けて、人定まる、八重子独り城上の月を眺めて、感慨に耐えず、笄(こうがい)を抜きて、城の白壁に、
明日よりはいづくの誰か眺むらん大城(おおき)にのぼる今日の月影
との和歌を刻む、亡国の恨、一首の中に溢れて、綿々として尽きず。

熊田は、このように八重子の戊辰戦争時の心の動きを描写した後、冒頭にご紹介した一文でこの項目を締めくくりました。大正10年といえば八重子は数えで77歳。戊辰戦争から半世紀以上が、そして夫の襄と死に別れてから30年の月日が経過していたものの、まだまだ健在でした。戦後、八重子が新島襄の妻となって同志社の運営を助け、また襄の死後も社会福祉活動などで幅広く活躍していたことを、熊田は知らなかったのでしょう。彼が現実とは対照的な八重子の「その後」を誰に聞いたのか、今となっては知るすべもありませんが、凜とした心構えで戦さに臨んだ少女の「その後」がこういう美談であって欲しい、という当時の風潮がこの話を生み出したのではないでしょうか。なお、八重子が詠んだ歌は東海散士(柴四朗)の小説『佳人之奇遇』でも早くから紹介されていましたから、八重子の後半生は、こうしたエピソードや、それにまつわって膨らんだ誤ったイメージに苦しめられた側面があったかも知れません(ちなみに『佳人之奇遇』の中にも、この歌を詠んだ婦人について「髪ヲ薙テ死者ノ冥福ヲ祈レリ」と書かれていますから、熊田は同書に影響を受けた可能性もあります)。
それにしても、戦死者を弔うため尼となって隠遁生活を送る理想の「山本八重子」像。この話は、きっと誰かが八重子の耳に入れたことでしょう。喜寿を迎えた「新島八重子」は美談とされたこのストーリーを笑って受け流したのでしょうか。そっと心の内を尋ねてみたいものです。
阿部 綾子(あべ あやこ)
福島県立博物館学芸員
阿部 綾子
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