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第8回 八重の故郷と襄の父祖の地

 新島八重は、現在明らかになっている限りでは、群馬県安中市を1882年、1888年、1910年、1921年と4回訪れています。特に八重が初めて新島襄の父祖の地・安中を訪れた1882年は、襄が初めて八重の故郷・会津を訪れた時でもあります。この時、襄は中山道を徒歩で、八重は船に乗り横浜経由で安中に向かい、安中で合流した後、二人そろって福島県会津若松市へ向かいました。八重と襄が夫妻であったように、会津と安中にもこの時から特別なつながりが生まれました。
特別なつながりとはどういうことでしょうか。具体的には襄がこの最初の会津訪問により東北伝道を意識するようになり、この襄の思いを受けて安中教会はじめ襄ゆかりの地に先に設立されていた組合教会(同志社系の教会)が大きな役割を果たし、八重の故郷に東北伝道の拠点となる会津若松教会が誕生したということです。襄が亡くなる直前の手紙には「其時ヨリ会津人ニ向ヒ非常ノシンパセーを顕ハシ、其レヨリ該地伝道ノ事ヲ主唱シタリ」とあります。ちなみに襄が2回目に会津を訪れるのは1886年、会津若松教会の最初の信徒となる14名に洗礼を授けるためでした。
伝道は襄の行ったことで、八重は関係ないと思われる方がいるかもしれませんが、東北伝道に関しては間接的な八重の働きを無視することができません。なぜならば前述した1882年の会津訪問は山本家の私的な用件によるものと考えられるからです。つまり八重の夫でなければ、この時に襄が会津に行くことも、鶴ヶ城を一周することも、戊辰戦争の生存者に話を聞いて深い親しみを覚えることも、東北伝道の情熱を持つこともなかったかもしれないということです。襄は東北伝道について記した手紙の中で「スパルタン人種ニ近き人間之ある福島県下」と記していますが、これも襄が八重やその周辺の人々から抱いた福島のイメージではないでしょうか。八重の存在が襄の公的な働きにどの様にインスピレーションを与え影響したか示す一例でしょう。
逆に、八重にとっても襄が夫でなければ1882年に安中を訪れることはなかったでしょう。八重もこれ以降、群馬とのつながりを保ち続けました。1888年には夫妻で伊香保温泉に滞在した後、八重は1人で安中を訪れています。さらに襄の教え子である安中教会牧師・柏木義円が発行していた『上毛教界月報』によると八重は襄の死後、1910年に安中教会で開かれた「故新島先生廿年紀年會」に出席しました。また1921年、数え年77歳の時、山形からの帰りにわざわざ安中に立ち寄っています。襄の死後、八重は安中教会などで襄の生き方や信仰を伝える語り部としての役割を果たしました。
1921年に関しては、会津に77歳と記された八重の書が数点伝わっており、山形だけではなく故郷・会津も訪れ、その後安中を巡る旅だった可能性があります。しかも、そのうち「日日是好日 新島八重 七十七歳」、八重と戊辰戦争をともに戦った中野竹子姉妹の絵に添えられた「勇婦竹子女史 七十七 新島八重子」はいずれも襄の教え子で会津若松教会牧師・兼子重光の関係者により現在に伝わるものです。兼子は会津出身で、同志社では会津藩主・松平容保の嫡男である容大の後見人を務めたことでも知られています。
つまり、八重は晩年にいたっても夫妻ゆかりの地、特にそこに立つ会津若松教会と安中教会に彼女なりの配慮をしていたのではなかったでしょうか。この最後の安中訪問で、八重は新島旧宅(襄がアメリカからの帰国後10年ぶりに家族と再会した家)にも足を運んでいます。年を重ねた八重が、もしかすると最後の旅になるかもしれないとの思いを抱きながら、自分自身と襄のゆかりの地を同じように尊重して足を運び、襄がその働きの広がりを願った教会の人々との交流を楽しんだ様な気がしてなりません。
今、私は同志社同様に襄の父祖の地・群馬でその教育方針を受け継ぐ新島学園で働いています。群馬に暮らす私たちが、過去のつながりを踏まえつつ、京都・同志社はもちろんですが、震災や原発事故による困難の中にある八重の故郷・福島や東北とのつながりを覚えることの大切さを、改めて八重から示されているようです。

<参考文献>
淡路博和、「新島八重子夫人と安中ご来訪について」、『根笹』第44号、新島学園同窓会、2011年。
『会津若松教会 百年の歩み』会津若松教会、2001年。
『上毛教界月報』第4、7巻、不二出版、1984年。
『新島襄全集』第3、4、5、8巻、同朋舎、1987-1992年。
山下 智子(やました ともこ)
新島学園短期大学 宗教主任 准教授
前職は日本基督教団 会津若松教会 牧師
山下 智子
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