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第9回 ”She could not keep her secret.”(秘密にできなかった八重)

 八重の夫である新島襄は、アメリカ留学中の若き日にリウマチ熱(リウマチズム)を発病し、その後何回も再発しました。その結果、40歳すぎよりは不整脈・心肥大・心不全などリウマチ熱の心臓合併症に苦しむことになります。
 新島襄は、45歳の明治21年4月学校設立基金の陳情で上京した際に体調をくずします。6月八重は、療養しても回復せず京都にも戻れず鎌倉の海浜院に入院した主人のもとに駆けつけます。八重は、片手に杖、別の手を看護師の肩にかけ軽い草履を履いてもそろそろとしか歩くことのできない憔悴した主人の姿にびっくりします。そして7月、八重は主治医より衝撃的な事実を告げられるのです。 ご主人の心臓病はもう直ることがなく、突然に絶命することもあるので身内のものは常日頃より心しておくようにと説明されるのです。
帰宅後そのことを八重より聞いた襄は、自分の死はある程度覚悟ができていたもののキリスト教主義に基づく学校設立への思い、後に残る老母や妻のことを考えると平静ではいられません。
襄は自分以上に悲嘆にくれる妻八重の姿を「八重ノ愁歎 一片ナラス」と表現しています。(1)
 ところが医師は、くれぐれもご主人には内密でと断った上で八重に説明していました。秘密にしておくことができずに話してしまったことは2日後(7月4日)ハーディ夫人への襄の手紙から読み取ることができます。
”She could not keep her secret”と書かれています。(2)
襄自身も心臓病はもう直ることはなく死の予感はあったものの、突然に死が訪れる可能性があるということを初めて聞いて動揺します。八重がふと席をはずしたわずかな時間に、お別れの言葉もいえないような突然のさよならにならないようハーディ夫人に今までの感謝と志半ばの現在の心境を書き綴っています。7月4日のアメリカ独立記念日という輝かしい日の手紙としてはなんだかという書き出しから始まる襄の人間味あふれる手紙です。
 八重はなぜ話したのでしょう?
普通に考えれば基金集めに奔走する夫になんとか安静を守ってもらいたかったということです。でもそれだけではなかったと私は考えています。
八重は夫婦間に隠し事があることを潔しとはせず、本当のことを話したのだと思います。同じ信仰で結ばれた八重と襄の結婚生活はわずか14年余り、しかも後半は、伝道と基金集めに全国を飛び回る襄を支え、襄の母を京都で世話しながらの日々でした。それでも北海道・仙台へは共に出かけ、鎌倉から伊香保での療養にも八重は付き添っています。共に信頼しあえるパートナーで対等の関係だったのです。
医療の歴史でみても、がんや不治の病の病名・病状を本人に直接伝えるようになってきたのはごく最近のことです。
八重の近代女性としての先進性は、包み隠さず本当のことをそのまま伝えたというこのエピソードにも現れていると私は感じています。

参考文献
(1) 新島襄全集  5巻 P.346-347
(2) 新島襄全集  6巻 P.333-334
布施田 哲也(ふせだ てつや)  公立丹南病院  副院長
1961年 福井市生まれ
1986年 自治医科大学 医学部卒業
2000年 公立丹南病院  副院長 現在に至る
(新島研究会会員  日本医史学会会員 日本小児科学会専門医 福井大学臨床教授)
布施田 哲也
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