Doshisha-ism
株式会社文藝春秋 代表取締役社長 中部嘉人さんに聞く
日本の出版業界を牽引する㈱文藝春秋の社長に昨年就任し、大学時代は今日に続く
同志社映画サークルF.B.I. を創部して自主映画づくりに挑んだ中部嘉人さん。
その大先輩に現F.B.I. 会長を務める内田明良さんがインタビューしました。

中部 嘉人(なかべ・よしひと)さん 長野県出身。1989年に株式会社文藝春秋に入社。経理局、営業局などを経て2014年取締役、2017年常務取締役。2018年に代表取締役社長に就任。
ある先輩に多大な影響を受け現在に続く道を歩み始めた
- 内田
- 本学の新聞学専攻(現 社会学部メディア学科)を選択された経緯を聞かせていただけますか。
- 中部
- 私は長野県の出身ですが、浪人生になった時に東京の予備校に入り、そこで紹介してもらった賄い付きの下宿で一人暮らしを始めました。親元を離れた解放感で少し浮ついていたのですが、その下宿で出会った先輩に多大な影響を受けました。医学部への進学を目指しておられたのですが、文学などの世界にも造詣が深く、圧倒されたのです。私も高校時代から古典的なものはある程度は読んではいましたが、文学青年ではなかった。『文藝春秋』という月刊誌も彼を通じて知りました。借りて熟読するうちに何となく大人になったような感じがしたのを憶えています。これをきっかけに、活字の世界やマスコミの業界に憧れを抱くようになり、当時、文学部社会学科にあった新聞学専攻に入学しました。今思えば、あの時の邂逅が私の歩む道を決めたように思います。
- 内田
- 今日はF.B.I. 創部当時の貴重な資料を持ってきました。
- 中部
- おお、懐かしい!当初のメンバーはいずれも新聞学専攻の学生でした。気の合う仲間と「興味や関心の分野が多岐にわたっている学生のためのサークルを創ろう!」と、話し合って結成しました。名称は「FashionableB-rank Intelligence」の頭文字から取っています(笑)。当時は映画、雑誌、音楽の3部門があり、私は映画部門の初代リーダーを務めていました。今日、持ってきていただいた当時の会員名簿や総会記録、企画書などを見ると、その頃の様々な風景が脳裏によみがえり、仲間の声が聞こえてくるようです。今は、130人の部員がいて、年間約50本の映像作品を手がけていると聞いて驚きました。時を超えて自主映画づくりの情熱が継承され、F.B.I. が映画を制作したい学生の受け皿になっていると知って凄く嬉しい。

- 内田
- 卒業時はどのような分野に進もうとお考えだったのですか。
- 中部
- 当初は映画業界を目指していましたが、内定を得ることはできませんでした。就職したのは東京の五反田に本社を構える㈱電波新聞社です。社長が同志社大学の先輩でした。ここで編集に携わり、大手の電気機器メーカーなどに赴き、取材をしてインタビュー記事や開発物語などを書いていました。コラムの次は特集、それをこなせるようになったら開発ドキュメントを…といった具合に目標を設定しながらスキルアップを図っていました。
- 内田
- その仕事を経て㈱文藝春秋に入社されたのですか。
- 中部
- そうです。㈱電波新聞社に入って6年目を迎えた時、㈱文藝春秋が中途採用の募集をしていることを知り、応募しました。大学受験生の頃から憧れていた出版社ですから面接では「何でもやります!」と必死で粘りました。その影響もあったのか、入社後に配属されたのは経理部門でした。編集の仕事しか経験がなく、自分に適性があるとも思えない。それでも、とにかく会社から与えられた業務をしっかりやろうと頑張りました。その後、営業部門に移り、デスクワークから一転して人と会うことが中心の仕事になります。当時はバブル景気が最高潮を迎えた頃で、中途採用の人数も多く、続々と新雑誌が発刊され、出版界は右肩上がりの時代でした。売上目標もノルマもなく、誰もがより良き明日を信じていました。営業の仕事は学びが多く、しかも楽しかった。もちろん、失敗もありました。北海道の資本力のある企業が札幌の郊外に大型書店をオープンされたので、私もできる限りのお手伝いをしました。しかし、実績のない新規店は新刊配本が不足気味になる。これでトラブルが起こったのです。「お客様が多数来店されているのに新刊がまったく足りない。どうなっているのだ!」と社長が激昂され、その日から私は出入禁止になってしまいました。以来、25年ほどお会いできなかったのですが、最近、当社にご挨拶に来られて再会することができました。ほろ苦くも、懐かしい思い出です。
真実を徹底的に追求し読者の揺るぎない信頼を得る
- 内田
- 出版業界の現状をどのように捉えておられますか。
- 中部
- マーケティングが非常に重要な時代です。優れた書籍を追求するのは当然ですが、それだけでは足りない。話題を創出して認知を促進し、購買へ結実させなければならない。大きなエネルギーを要しますが、その手間暇を惜しむと本は売れません。最近は映像化にも力を注いでいます。私どもの原作本を各社に紹介し、それを映画化していただく。作家と当社の編集者が作り上げた作品世界を最上のかたちで映像表現してもらうために、当方の意向を製作現場の方々にもきめ細かくお伝えするようにしています。傑作が誕生すれば、それが書籍の拡販にも直結します。映画製作委員会に参画して出資して興行が成功すれば、分配金も入ってきます。また、映画のクレジットに自分の名前が表示されると「大学生の頃に抱いた夢を少しは実現できたのかな…」という気がして感慨深いですね。
- 内田
- 活字メディアが担うべき役割についてどのようにお考えですか。
- 中部
- 例えば、その時々の社会的な最新情報を得るという点ではデジタルメディアの方が優っています。スマートフォンなどでいつでも確認できるわけですから…。ただし、受け取った速報の背後にあるもの、その情報の持つ意味、それに基づく展望などについては、これからも活字メディアが担うべきものだと確信しています。そのためには真実を徹底的に追究し、読者の信頼を得なければならない。雑誌ジャーナリズムでも、ノンフィクション作品でも、あらゆる角度から検討を重ね、核心をついた情報を提供することが私たちの務めだと考えています。

- 内田
- 副会長に就任された同志社東京メディアクローバー会について。
- 中部
- 先日、宮坂学会長(ヤフー株式会社取締役会長)にはお会いしましたが、具体的な活動はこれからです。できる限り貢献したいと思っています。例えば、大手の出版社は東京に集中していますが、作家の方々は全国各地におられます。同じように、これからの出版業界に活力を与える人材を関西からも募りたい。そのために、次年度は当社の一次試験を大阪でも実施することにしました。特に後輩である同志社大生には、ぜひ受けていただければと思っています。
誰にでも「勝負の時」は訪れる自分の熱意がその勝敗を分ける

- 内田
- 同志社での4年間は人生においてどのような時期でしたか。
- 中部
- 当時の流行りの言葉で表現すれば、モラトリアムな日々でした。大好きな映画づくりに打ち込んではいましたが、未来は見えない。いわゆる自分探しの毎日でした。しかし、誰にでも「勝負の時」は訪れます。私の場合は2回ありました。一つ目は㈱文藝春秋の中途採用に応募した時です。勇んで臨みましたが、筆記試験の手応えは最悪でした。それでも最終面接にまで漕ぎ着けることができたので、12、3人の役員の方々を前にして自分の熱意を身振り手振りも交えながら懸命に伝えました。二つ目は社長に就任した時です。今回は会社の命運を託された大勝負であり、舵取りを間違えると取り返しのつかないことになります。覚悟を決めて企業経営に挑んでいます。
- 内田
- 最後に本学の後輩へのメッセージをお願いします。
- 中部
- 出版の仕事の醍醐味は自分が立案した企画を具現化すること。作家と共に珠玉の作品を仕上げるのは、自分の子どもを育てるようなものです。その子どもが世に出て受け入れられた時の喜びは何ものにも代えがたい。さらに、ベストセラーになったら、世の中に自身の生きた証を残したことになる。大手ゼネコンの企業広告に「地図に残る仕事」という印象深いコピーがありますが、名著の出版は「文化に足跡を刻む仕事」です。この世界に改めて目を向けていただければと願っています。
インタビューを終えて

内田 明良 さん
【文学部美学芸術学科3年次生】
今日は私の「永遠の記念日」になりました。F.B.I. での自主映画づくりは、大学生活の中で何よりも大切にしていることです。そのサークルを創設された大先輩で、㈱文藝春秋を率いておられる中部嘉人社長にお会いできて心から感動しました。誰にでも「勝負の時」が訪れるという熱い言葉も、心に深く響きました。中部嘉人社長は私の大きな誇りであり、明日への凄いパワーをいただいたと感じています。自分が目指す世界の扉が開くまで、全力を尽くして挑み続けたいと決意を新たにしています。素晴らしい機会を与えていただき、ありがとうございました。
神奈川県出身。現在、越前俊也教授のゼミで黒澤明監督『乱』をテーマに能を結実させた映画技法を研究。F.B.I. の会長も務めている。卒業後はカメラマンとして映画やCMなどの世界で幅広く活躍したいという。
2019年4月発行
One Purpose197号「同志社人訪問」より
お問い合わせ | 同志社大学 広報課 TEL:075-251-3120 |
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