学長からのメッセージ等
新年のご挨拶
2025年1月1日
同志社創立150周年を迎えて
新年明けまして、おめでとうございます。
同志社創立150周年の新春を迎え、同志社大学のさらなる発展のために尽力する決意を新たにすると共に、本学に関心を向け、本学をお支えくださる皆様のご活躍とご健勝を心よりお祈り申し上げます。本学の歴史にとって大きな節目となる2025年の年頭にあたり、私から新年の挨拶を述べさせていただきます。
150周年の意義──同志社のカイロスとして
150年という歴史は、人類史から見れば「点」のようなものですが、人一人の人生から見れば、その全体をとらえるのは容易ではない長さを有しています。しかし、150年に及ぶ同志社の歴史を自分にかかわる意義あるものとして受けとめることができれば、それは私たちの生き方や考え方に変化をもたらすかもしれません。
新年を迎えるに当たり、私たちは過ぎ去った一年を振り返り、新しい年がよりよい一年になるよう願います。刻々と流れる時の流れそのものには、何の区分もありません。しかし、人間は何かしら区切りを設け、過ぎ去った時間、これから到来する時間に意味を与えてきました。
興味深いことに、新約聖書は時間を表す言葉を二種類持っています。一つは「クロノス」、もう一つは「カイロス」です。刻々と流れ、機械的に刻まれる時間、言い換えれば、時計やカレンダーによって管理される時間が「クロノス」であり、その一方、クロノスで測ることのできない、満ちゆく「時」の感覚を新約聖書は「カイロス」と呼んでいます。「時は満ち、神の国は近づいた」。これはイエスによる宣教の最初の言葉であるとされています。イエスの言葉の中には植物の生長や自然の機微に触れたものがきわめて多く、「時が満ちる」という感覚は、生命の誕生や再生の不思議と結びついているとも言えます。
少年時代、典型的な虫捕り少年であった私は、夏休みの夜や早朝、クワガタやカブトムシ捕りの最中、何度となく、セミの脱皮を目の当たりにすることがありました。地中から這い出てきた幼虫は一時間近くかけて脱皮します。そして羽が乾き、体色が黒くなるまで、さらに一時間近くかかります。この時間のかかるプロセスに、なぜか私の目は釘付けになり、セミと同じように木にへばりついて、脱皮の様子を見守りました。長い地中生活を経て、みしみしと言わんばかりに自らの殻を破って姿を変える変態プロセスは、好奇心をかき立てただけではなく、その経験は、じっくりと待ち、時が満ちることを味わうカイロスの原体験を私に与えてくれたように思います。
現代社会はクロノスを中心に回っています。時間をしっかり管理することや、大量の情報をいかに効率よく処理できるかが求められます。じっくり待つ、立ち止まる、ということが、かくも難しい時代において、日々の生活の中で「時が満ちる」カイロスを見出すのは容易ではありません。しかし、そうであればこそ、同志社150周年は時満ちて、「同志社のカイロス」を見る絶好の機会と言えるかもしれません。日常の「殻」を破って、新たな存在へと「脱皮」する特別な時間に立ち会うために、私たちはただ観察者でいることはできません。同志社150年の歴史の紛れもなくその一部を担っている私たちが、先人たちの歩みにどのように連なり、歴史のフロントランナーとして、これからどのような道を拓いていくのかが問われることになります。
歴史から展望する未来への挑戦
同志社の歴史には、日本近現代の激動の歴史が刻まれています。「キリシタン禁制の高札」が撤去された1873年のわずか2年後に京都に開校した同志社英学校は、京都の保守的な市民や宗教界からは、京都にふさわしくない「異質なもの」として批判の矢を浴びることになりました。国家や天皇への忠誠が強く求められた戦争の時代には、キリスト教主義の撤回を求める声が学内外から発せられ、学校として存続の危機に立たされたこともありました。
150年前、2名の教師と8名の生徒で始まった同志社の出発点と、学校法人全体で約1,800人の教職員、約42,000人の学生・生徒・児童・園児を擁する総合学園として発展した同志社の現在地点を結べば、あたかも順風満帆の歴史のように見えるかもしれません。しかし、実際には決してそうでなかったこと、多くの先人たちの苦労のもとに現在の同志社があることを忘れるべきではないでしょう。
同志社150年の歴史を振り返るために、良心学研究センターでは、全6回の連続シンポジウム「同志社150年の歴史から展望する未来への挑戦」を開催し、現在4回まで終えています。シンポジウムを準備する中で、『同志社百年史』をたびたび参照しますが、その「序」に記された、当時の上野直蔵・総長の言葉は印象的です。「同志社を護るための先人たちのすさまじいまでの攻防は、まさに一つのドラマであり、読むものをして緊張と畏怖の念を起こさせるであろう。この書は同志社の犯した数々の失敗や恥辱の部分をも隠すことなく記している」(『同志社百年史』通史編一「序」)。同志社の歴史は確かに「ドラマ」です。しかし、「同志社の犯した数々の失敗や恥辱の部分」をも私たちは直視し、歴史の教訓から学び、未来への指針としていかなければなりません。
同志社の歴史は同志社の内部に閉じていないことを実感する経験を昨年することができました。アーモスト大学との関係においてです。2024年6月、アーモスト大学マイケル・A・エリオット学長が本学を訪ねられ、本学はエリオット学長に名誉文化博士の学位を贈呈しました。名誉学位贈呈式でのスピーチにおいて、エリオット学長は新島襄がアーモスト大学から引き継いだ理念として「自由」の思想、「自由教育」(freedom education)があることに言及されました。10月には、150周年記念事業の一環として、八田総長・理事長はじめ、同志社関係者と共にラットランドアピール(1874年10月9日、グレイス教会で新島は日本での学校設立のために寄付を呼びかけました)の記念ツアーに参加し、アーモスト大学に立ち寄ることができました。アーモスト大学での歓迎レセプションにおける挨拶の中で、エリオット学長は再度「自由教育」について触れられました。気になった私はエリオット学長と「自由教育」をめぐって、やり取りをしました。一言で言えば、アメリカの大学史においても「自由」は決して当たり前のものではなく、大学は「自由」やそれに基づいた「民主主義」を養う役割を社会の中で果たしていかなければならないということでした。新島が生涯の目標とした「自由教育」の起源を見た思いがしました。
アメリカに限らず、昨今の世界情勢を見渡せば、「自由」やリベラリズムが、いずれはどの社会にも広がっていくと楽観できないことは明らかでしょう。従来のリベラリズムが機能不全を起こしているとすれば、その問題をどのように乗り越えていくのかを考えていく必要があります。また本学が「自由主義」を掲げる以上、未来社会を見据えて、その内実のアップデートが求められることになります。
新たな飛躍に向けたネクスト・ビジョン
「同志社大学ビジョン2025」は2015年に策定され、修正を加えられながら、そのビジョンは2025年までの本学の指針となってきました。今、2025年を迎え、創立150周年以降のビジョンの策定に向かわなければなりません。その意味では、2025年は、次の飛躍に向け、新たなビジョンや、それに基づいた中期行動計画を策定する重要な助走期間・移行期間となります。
本学の固有の価値を確認し、大きく歴史を展望する好機(カイロス)として150周年をとらえる中で、私たちは同志社のオリジン(新島の冒険的生涯や革新的な思想)に立ち返ることになるでしょう。そして同時に、新しいオリジンを未来の同志社のために紡ぎ出していく必要があります。
同志社の150年の歴史と私たちの人生が交差するとき、何が起きるのか。私たちの「日常」の中に150年という「非日常」が差し込まれるとき、祝祭的な一体感がどのように醸成されていくのか。そのようなことを考え、期待しつつ、この一年を過ごしたいと思います。
同志社大学が唯一無二の誇りある輝きをもって社会を照らし、次世代社会のための新しい価値を生み出していくために、皆様お一人おひとりのご理解と力添えを心より願う次第です。
2025年1月1日
学長 小原克博