「故・大谷實前総長追悼礼拝」説教
2026年2月22日 「故・大谷實前総長追悼礼拝」説教
マタイによる福音書 6章25−34節
25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
1月6日、大谷實前総長が地上での歩みを終え、天に召されました。心より哀悼の意を表します。また、ご遺族のみなさまに天よりの慰めが与えられますよう、お祈り申し上げます。この追悼礼拝では、参列した私たちが哀悼の思いを共有することに加え、大谷先生が遺されたものを振り返り、それを私たちが引き継ぐ機会にできればと願っています。その手がかりの一つとなるのが、故人愛唱聖句です。
キリスト教の世界では、生前に愛唱聖句や愛唱讃美歌を教会に伝えておく習慣があります。どのような聖書の箇所や讃美歌を心の糧として生きてこられたのかは、その人を理解する上で大切だからです。大谷先生の愛唱聖句は新約聖書「マタイによる福音書」6章33〜34節でした。この聖句を紐解きながら、大谷先生の思いやお人柄を振り返りたいと思います。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
この箇所は6章25節から始まるイエスの説教の最後の部分にあたります。文脈全体がわかるように、次第には25節以下の言葉をあげています。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」とイエスは語りかけていますが、これらの事柄に悩んでいる現実は今も昔も変わりありません。その一方で、食べ物に限らず、物にあふれた現代社会を生きる私たちは、「もっともっと」という欲望に駆り立てられやすい環境で生きています。
そのような中で、大谷先生が「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」という言葉を愛唱聖句とされていたことは、どのような課題を私たちに投げかけているのでしょうか。そのことを考えるヒントは、大谷先生が残してくださったものの中にあるはずです。
2016年に大谷先生は『同志社総長「思い」を語る』という本を刊行されました。私も大谷先生から一冊贈呈いただき、そのときに興味深く拝読いたしましたが、今回、あらためて読み直しました。この本は、同志社に関係する様々な行事等で話されたり、書かれたりした内容や、京都犯罪被害者支援センター、世界人権問題研究センターに関係する文章を含んでおり、本のタイトルの通り、大谷先生の「思い」を伝えるものとなっています。この本を手がかりに、大谷先生の「思い」をたどっていきたいと思います。
大谷先生のメッセージには聖書が多数引用されています。中でも、もっとも多く引用されているのは「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)という聖書の言葉です。この言葉は、大谷先生の愛唱聖句「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」という言葉と響き合っています。大谷先生は2016年のチャペルアワーの中で、「与える喜び」を実践できる人格の形成が重要であると語っておられます(100頁)。食べ物、飲み物、着る物がもっと欲しいと願うのは世の常ですが、大谷先生にとって、これらは神の国と神の義を求める中で、おのずと与えられるものであって、「与える喜び」の実践こそが大切なことでありました。「与える喜び」は大谷先生の人生を貫いていた「思い」ではないでしょうか。
「与える喜び」を実践した人物がもう一人います。その人物の葬儀の際には、「彼等は世から取らんとす、我等は世に与へんと欲す」と記されたのぼりが用意されました。「世に与へんと欲す」生き様を示したその人物は新島襄でした。新島の「思い」を理解していた弟子の徳富蘇峰が、恩師を弔うのに最適な文言として、「彼等は世から取らんとす、我等は世に与へんと欲す」という言葉を勝海舟に書いてもらったのでした。「与える喜び」を実践したという点において、大谷先生の生き様は新島が残したものを引き継ぐものでした。
大谷先生のメッセージの中には「同志社ブランドの強化」という課題が何度も出てきます。同志社の魅力を社会にしっかりと伝えたいという思いが、大谷先生の言葉にはみなぎっていました。そして、大谷先生が考える同志社ブランドの中核にあるのは良心教育でした。そして同時に、良心教育とは何か、いや、そもそも良心とは何か、という問いを自ら立てられ、真摯にその問いに向き合われました。大谷先生はその問いを多くの方と共有するために「良心教育に関するシンポジウム」を始められ、回を重ねられました。そこでは、新島の言う「良心」が、日本語の常識的な理解と違うことへの気づきがあり(15頁)、英語のconscienceに立ち返り、それが「共に知る」という元の意味を持つことを確認する中で、良心を「対話する心」として位置づけられています。大谷先生にとって良心が、どのようなものであったのかを、そのお人柄と共に伝える言葉がありますので引用します。
「私はクリスチャンですから、人との対話と共に神様との対話を大切にし、物事の決断に迫られるとき、読書や他人との対話、コミュニケーションを通じて、自分は何をなすべきか、または、何をなしてはならないのかの答えを求める。そして、最後には、祈りを通じて神と対話し、得られた答えを実行するという意識・心構えが良心だと考えています。」(7頁)
「人と共に知る」「神と共に知る」良心を実践された大谷先生にとってキリスト教主義と良心教育は一体的なものでした。そして、同志社のキリスト教主義が排他的なものにならないよう、一般の人にとってどのような意味をもつのかを絶えず考えておられました。さらに付け加えるべきは、大谷先生はキリスト教主義や良心教育を理念にとどめず、それを実践することを大切にされたということです。次のように語られています。
「今大切なことは、良心教育を名目だけのものとしてでなく、同志社の園児、児童、生徒、学生の血となり肉となるような教育を実施することにあると考えています。」(28-29頁)
大谷先生は同志社の内外で、良心を自らの血肉として実践された方でした。30代のときに「犯罪被害者の人権」ということを日本で初めて本格的に訴え、「犯罪被害者の生活を支援する運動」を京都で始められました(121頁)。世界人権問題研究センター理事長としてのお働きも、大谷先生の人権意識の実践の場となりました。私自身、世界人権問題研究センター主催の人権大学講座にパネリストとして招かれた際、大谷先生の人権意識の広さを垣間見ることになりました。
大谷先生は新島と同じく「与える喜び」を実践し、その生涯を全うされました。そして、大谷先生から多くを与えられた者が、今ここに集まっています。「彼等は世から取らんとす、我等は世に与へんと欲す」。取ることに懸命になる人間の性(さが)は今も昔も大きく変わるものではありません。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな」という聖書の言葉を愛唱された大谷先生に対し、多くを与えられた私たちが感謝の意を示すためにできることは何でしょうか。良心をもって「与える喜び」を実践する者が現れてくれば、大谷先生はきっと喜んでくださるに違いありません。
2026年2月22日
学長 小原克博