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新島襄の精神とその現代的展開

 企業や学校といった違いにかかわらず、組織の創立者の精神は重要なものとして継承されながらも、それが固定的なものとして受けとめられるとき、皮肉にも、精神の形骸化をもたらすことになる。こうした普遍的なジレンマにどのように向き合っていくことができるのかについて、同志社の創立者・新島襄の精神を受け継ごうとする我々自身の課題として考えてみたい。
 伝統として安定的な位置を与えられているものに批判的な光を当て、それを解釈可能なものとして流動化させることによって、それは不変の所与のものから、自分に関係のある動的なものへと変わっていく。自分事となった伝統は、おのずと責任意識を喚起させる。伝統に責任を負うことは、我々が生きる現代というコンテキストにおいて、伝統が依拠するテキストを再解釈し、それを実践することでもある。

1.新島襄を「知る」

 新島襄を「知る」ために、我々は新島がどのように語られてきたかを参照することができる。そして、その語りは、語り手の視点によって内容を変える。言い換えれば、新島理解は時代の影響を絶えず受けてきた。たとえば、戦中には愛国者としての新島が強調され(特に徳富蘇峰)、戦後には先駆的な民主主義者・自由主義者として新島は語られた。1990年代以降は、「良心教育」の創始者としての新島がアピールされるようになった。
 こうした変遷する新島理解の一つを、新島先生永眠50周年記念事業(1940年)における講演から紹介したい。

  

新島先生が明治の実利主義的大勢に抗して勇敢に標榜せられた精神主義は、儒教によって洗練された我国の伝統的精神主義を、基督教によつて深めたものであった。(魚木忠一・講演「教育の一源流として見たる新島先生」、『同志社百年史』通史編二、1169頁)

 戦時下においては、国体の中核的イデオロギーとも言える儒教的精神(教育勅語はその中心)への忠誠が、各学校において求められた。上述の魚木によれば、新島は儒教的なものをキリスト教によって深めた人物として称賛されている。しかし、実際の新島は儒教に対してはきわめて批判的な態度を取っており、儒教とキリスト教の折衷などは考えていなかっただろう。次の言葉は、そのことを明瞭に語っている。

  

而してかくのごとき教育は、決して一方に偏したる智育にて達し得べき者にあらず、また既に人心を支配するの能力を失うたる儒教主義の能くすべき所にあらず、ただ上帝を信じ、真理を愛し、人情を敦くする基督教主義の道徳に存することを信じ、基督教主義をもって徳育の基本と為せり。吾人が世の教育家とその趨を異にしたるもここに在り。(「同志社大学設立の旨意」1888年、『新島襄 教育宗教論集』21-22頁)

 脱国する以前の新島は、封建的かつ儒教的な支配秩序に従い続けることに息苦しさを感じた。そうした支配的秩序としての「公」の中に「私」を適切に位置づけることが、当時は社会常識として求められていた。しかし、新島はそうした「公」から脱し、「私」を確立していく。それは一足飛びになされたわけではないが、「私」を「公」(儒教的イデオロギー)に対峙できるほどに強めた源泉には、キリスト教があり、米国市民社会の中で経験した自由や自治自立の精神(近代個人主義)があったのである。新島を「知る」上で、こうした点は重要であるが、同時に、新島理解が時代状況(特に「公」を重視する時代状況)により歪められることもあったことを認識しておく必要がある。

2.新島襄と良心

 本稿は、conscienceとその訳語「良心」との間の相違に目を向けることによって、「良心」概念に新たな光をあてようとしているが、その前に、新島がconscience と出会った歴史的背景に言及しておきたい。
 19世紀後半の米国は道徳哲学(moral philosophy)全盛の時代であった。キリスト教の影響力がヨーロッパ諸国と比べても大きかった米国においても、近代化や世俗化の波は押し寄せていた。かつであれば、聖書や教会が個人や社会に指針を与えることができたが、それが徐々に困難になってきた時代において、社会的コンセンサスを得るために、宗教(キリスト教)ではなく道徳哲学への期待が高まってきたのであり、その中でconscienceは重要なキーワードであった。そのような時代の米国において、新島はconscience と出会った。しかし、新島にとって、conscienceとの出会いは観念的なものではなく、むしろ、それを体現した人物との出会い通じて、体験的にその理解を深めていったと言えるだろう。また新島の場合、conscienceはキリスト教信仰と密接に結びついていた。
 しかし、帰国後の新島は「良心」という言葉を頻繁に使ったわけではなかった。先にも述べたように「良心教育」という言葉が使われるようになったのは1990年代以降であるが、新島自身はその言葉を一度も使ったことはない。ちなみに、新島は「自由教育」という言葉を頻繁に使ったが、その言葉が、現在の同志社で使われることはほとんどない。
 「良心教育」がアピールされる際、その根拠として引き合いに出されるのが「良心碑」に刻まれた言葉「良心の全身に充満したる丈夫の起り来たらん事を」である。「良心碑」は新島永眠50周年の1940年11月29日(創立記念日)に建てられた。「キリスト教」を前面に出すことがはばかられる時代において、軍部の圧力を交わすため「良心」を掲げたという側面もある。もともと、この言葉は、以下の横田安止宛て手紙(1889年)に由来する。

  

 動くも目的のため、また、忍びて待つも計画のため。今日もなお、待つの有様なるも、今となりては、ただ待つのみならず、農夫が田畑に寒肥をかくるがごとく、他日、収穫を得るだけの準備は、だいぶ致し置き申し候。
 政事上の実況は、実に実着なる真面目なる男児の乏しきを覚え、ますます良心の全身に充満したる丈夫の起こり来たらん事を望んで止まざるなり。(「横田安止宛」手紙、1889年、『新島襄の手紙』300頁)

 この手紙からわかるのは、新島が「良心の全身に充満したる丈夫」を望んだのは、政治の世界のことであって、教育は直接には関係していないということである。しかし、こうした文脈に目が向けられることは、ほとんどない。
 帰国後の新島が「良心」という言葉を慎重に使っていた。以下の手紙はその一例であるが、当時流布していた儒教的な「良心」と混同されることを避けようとしたのかもしれない。

  

今日些少の障碍または少しくコンションス〔conscience 良心〕を傷むる等の事のために、国家の大鴻益となるべき伝道に損失を与えしむるの時にあらず。
(「小崎弘道宛」手紙、1880年、『新島襄の手紙』157頁)

 引用文中の〔conscience 良心〕は編者の説明的挿入であるが、新島が「良心」ではなく「コンションス」を使用している点は、新島の慎重さを反映しているようで興味深い。
 次の手紙は、儒教に精通していた徳富猪一郎に宛てた手紙である。「良心を真理に照準して使用し」とあるが、ここで「真理」とはキリスト教の真理を指していると考えてよいだろう。儒教的な「良心」だけでは十分ではなく、それを「真理に照準して使用」することの大切さを、新島は徳富猪一郎に伝えようとしたのではないか。

  

生のごときは日暮れて途遠く、なお克く駑馬千里を駆くる能わずといえども、ただただ我が良心を真理に照準して使用し、天より賦与するところの力を竭くして一生を終わらんと欲するのみ。
(「徳富猪一郎宛」手紙、1882年、『新島襄の手紙』167頁)

 新島にとって、良心は自由と密接に結びついていた。次の言葉もそれを物語っている。

  

智識、財産、自由、良心の働きを養生する事。この内一も欠くべからざる事、恰も卓の四脚あるが如し。この内誰をか重んじ誰をか軽んずるや。君子国を為すには、天国を為すには、良心を養生する事を最も貴重とすれども、文明国を為し、文明の社会を組織するには、この四大元素の内、一も欠くべからず。(演説草稿「文明を組成するの四大元素」1882年、『新島襄 教育宗教論集』283頁)

 以上から分かるのは、conscienceの訳語として「良心」が一般的に用いられつつあった時代において、新島はその言葉を用いつつも、一般的な用語法に収まらない独自の意味合いを込めていたということである。端的に言うなら、新島にとって、良心はキリスト教や自由と一体的なものであった。それを踏まえた上で、我々が現代および未来という文脈において良心概念を活用するために、次に良心概念の系譜をたどり、概念拡張の可能性を提示したい。

3.「良心」の系譜とその概念拡張

 「良心」という日本語が英語のconscienceの訳語として定着したのは19世紀末のことである。当時、外来語に対応する適切な日本語が見当たらない場合、中国の古典から言葉を探すことが多かった。「良心」は『孟子』(告子章)から取られたことからもわかるように、それは儒教的な性善説の系譜の中で理解される傾向が強かった。そして、その傾向は今も続いていると言える。
 新島が米国で出会った英語のconscienceはギリシア思想に由来する長い系譜を有しており、西洋概念としての良心の語源的な意味は「共に知る」である(以下の文章は『同志社精神を考えるために』「良心」および『SDGs ネクスト「深山大沢」プロジェクト』第1章より適宜引用している)。conscienceの元になったのは、ラテン語のconscientia(コンスキエンティア)であり、con(共に)とscire(知る)から成り立っている。コンスキエンティアの元になったのはギリシア語のシュネイデーシスであり、やはり「共に」と「知る」から構成されている。もちろん、言葉の意味は語源だけで特定することはできず、それぞれの時代で多様な意味解釈が展開されてきたことは言うまでもない。
 問題は「誰と」共に知るのかである。概観すれば、西洋史においては以下の三者が考えられてきた。
(1)内なる他者(自己)と「共に知る」──個人的良心
 ソクラテスら古代ギリシアの哲学者たちは「良心」という言葉こそ用いないものの、内なる他者としての自己の声に耳を傾けることを重視し、「良心」の起源についての探究をしている。こうした、自己の内面に向かう良心を「個人的良心」と呼ぶことができるだろう。こうした思想的な系譜の中から、「個人の尊厳」や「良心の自由」といった近代的な考えも出てくることになる。まさに「個」を成立させる、アイデンティティや信念の核としての良心である。「良心的兵役拒否」など、既存の社会規範への挑戦も、良心の重要な側面であり、こうした点において儒教的な「良心」とは対照的であることがわかる。
(2)外部の他者(第三者)と「共に知る」──社会的良心
 自己の内面と対話し、逡巡しながら、意思決定していく良心のプロセスは重要であるが、それが外部との関係を持たなければ、独善に陥る危険性もある。個人が内心に従って良心的判断をしたとしても、それがすべての行為を正当化できるわけではない。他者と課題を共有し、個人の判断・行動が他者や社会に対して、どのような影響を及ぼすのかを考え、他者からフィードバックを得る良心の力を「社会的良心」(良心の社会的次元)と呼ぶことができる。閉じた「個」にとどまることなく、「多様性」へと開かれていくことを「社会的良心」は要請するのである。
(3)神(超越的他者)と「共に知る」──信仰的良心
 すでに古代ギリシアにおいて神託に聞くという伝統はあったが、ヨーロッパで4世紀以降、キリスト教が支配的な宗教となってから、西洋思想史において超越的他者としての神と「共に知る」伝統が形成されていく。ただし、神の声を代弁したのは実際には教会であった。その背景には、人間は罪深く、自分自身では善悪の判断もできないので、教会の権威に従うべきだという考え方があった。他方、プロテスタント宗教改革は、教会や聖職者という仲介者なしに、個人は神の前に立つことができるとした。宗派による理解の違いがあるとはいえ、キリスト教信仰に基づいた「信仰的良心」の形成は、後の「信教(信仰)の自由」や個人主義を準備することになった。
 以上説明してきた良心概念は、西洋史と結びついた固有性を持つ一方、「個人的良心」「社会的良心」「信仰的良心」を広い意味で受けとめれば、非西洋圏においても呼応する普遍的な側面を見出すことができるだろう。
 良心概念は神学や思想史において重要な役割を果たしてきただけでなく、西洋の市民社会の形成にも大きな影響を及ぼしてきた。良心の自由や信教の自由は、リベラルデモクラシーの根底にあると言ってよい。自立した個人が相互に契約することにより自由な市民社会を作ることができる。時に、強い信念として内面化された良心は社会規範への挑戦となるので(良心的兵役拒否はその一例)、ベーコン、ホッブズ、ロックのような啓蒙思想家たちは、良心のラディカルさを忌避したほどである。
 西洋の良心にも社会の共通善としての側面はあるので、東洋の良心と類似点がないわけではない。しかし、文脈によっては、良心とconscienceは、ほぼ正反対の働きをすることに注意を払う必要がある。新島の遺言「倜戃不羈なる書生を圧束せず」が、どちらと響き合うかは明らかだろう。「良い」「悪い」の価値判断を早々にすることによって、差別や分断が生じがちな現代社会において、また、領域横断的な「総合知」が求められている時代において、conscienceを再考し、我々の「良心」理解をアップデートすることは急務である。
 そのためには、伝統的な良心概念を再考するだけでなく、その概念を拡張していく必要がある。ここでは重要な三つの拡張可能性、すなわち、(1)未来世代と「共に知る」良心、(2)大地と「共に知る」良心、(3)人工物(AI・ロボット)と「共に知る」良心の可能性を概観したい。
(1)これまで倫理や責任意識は現在世代の中で完結していた。現在世代中心主義は言語化する必要もないほどに大前提とされてきた。しかし、それではSDGsが提起する諸問題を解決することはできない。現在世代が未来世代のエネルギーや食糧資源を先食いすることなく、未来世代と「共に知る」知恵を持ち、世代を超えて「かけがえのない地球」(Only One Earth)の居住者であることを自覚する必要がある。
(2)産業革命以降、人類は膨大な資源とエネルギーを消費し、地球環境に大きな負荷をかけてきた。しかし、20世紀後半には、地球環境(大地)は人間の際限ない欲望にもはや応えることのできない有限なものであることがわかってきた。地球環境と人間の相互関係を理解することはSDGsの課題解決の大前提であるが、何より理解を行動へと変えていく実践的な良心が求められる。そのためにも、人間が内なる大地(腸内細菌などの微生物、マイクロバイオーム)と外なる大地(地球環境)の間にあることを理解し、大地と「共に知る」知恵を持つ必要がある。
(3)現代は、技術革新によって、自然(自然に生まれたもの)と人工(人間によって造られたもの)の区別が曖昧になってきている。ヒトゲノム編集、人工知能研究などに代表されるように、伝統的な「自然─人間─人工物」といった区分が流動化している。自然と人工物の融合が進み、AIやAIが実装されたロボットが人間の意思決定に大きな影響を与えつつある中で、新たな倫理指針を与え得る、人工物(AI・ロボット)と「共に知る」良心が求められることになる。

4.新島襄の大学観

 大学設立運動に奔走する最晩年の新島は、死の前年となる1889年、手紙や講演で「深山大沢」を頻繁に用いている。新島自身は、その実現を目指した「同志社大学」を見ることなく、この世を去ったが、現代の我々が「同志社大学」のあり方を考えるとき、その思想的基盤として「深山大沢」を再確認することの意義は大きい。代表的なものを以下にあげる。

  

世人は我が同志社を評して只宗教主義の学校にして只伝道師を養成するのみと云う。夫れ或は然らん、如何となれば神学専門の一科をおきたればなり。吾人は此の一科を以て足れりとせず、此より進みて文学、法学、理学、医学等の諸学科をおき、宇宙の天理を講究し、社会の通則を学ばしめんと欲す。凡大学たるものは偏頗狭隘たるべからず、尤基礎を強固にし規模を寛大に為し、深山大沢龍蛇を生ずと申して之を深山大沢となし、器量の大、志操の高、目的の大なる人物を養成致し度きものなり。(「大学設立主旨」、1889年8月16日、徳富蘇峰秘書写し、『新島襄全集』1、151頁)

  

願わくば、「深山大沢、龍蛇を生ず」の句を服膺し、当時〔現在〕学校に在るは、深山大沢に蟠るの感を持ち、将来、龍蛇となり、芙蓉峰〔富士山〕の上まで達せん事を期し賜え。(「古賀鶴次郎宛」手紙、1889年11月2日、『新島襄の手紙』298頁)

  

学校も機械的の製造場に漸々流れ行くは、生徒の数も増したるより、自然の勢いにして、止む能わざるところもこれ有るべく候えども、小生平素の目的は、成るだけ法を三章に約し、我が校をして深山大沢のごとくになし、小魚も生長せしめ、大魚も自在に発育せしめ、小魚大魚、各その分に応じ、その身を世に犠牲となし、この美しき日本を早晩、改良して、主の御国、すなわち黄金時代に至らしめん事は、小生の日夜、熱祈して止まざるところなり。(「横田安止宛」手紙、1889年12月30日、『新島襄の手紙』316頁)

 これらの言葉には、新島の大学観や人間観(学生観)が明瞭に表されている。「深山大沢、龍蛇を生ず」において「龍蛇」は大人物を意味しているが、それは新島の遺言の一つ「同志社においては、倜戃不羈(てきとうふき)なる書生を圧束せず、努めてその本性に従い、これを順導し、もって天下の人物を養成すべき事」(1890年1月21日)へと結実していく。他方、「我が校をして深山大沢のごとくになし、小魚も生長せしめ、大魚も自在に発育せしめ」は、同志社創立10周年記念講演(1885年)の際に、退学処分となった学生を想い、涙を流しながら語った「諸君よ、人一人は大切なり。人一人は大切なり」を強く連想させる。「深山大沢」が、単なるエリート主義とは異なる価値を包摂していることは明らかだろう。
 また最初の引用文からわかるのは、新島は大学を「宇宙の天理を講究」する多様な学問探究の場と考えているということである。「大学は智識の養成場なり、宇宙原理の講究所なり」(「私立大学設立の旨意、京都府民に告ぐ」、1888年、『新島襄 教育宗教論集』54頁)という別の新島の言葉からもわかるように、新島にとって「宇宙」もまた大学を語る上で欠かせないキーワードであった。
 新島晩年の愛唱句「深山大沢生龍蛇」(深山大沢、龍蛇を生ず)は、中国古典『春秋左氏伝』(儒教の重要文献である四書五経の一つ『春秋』の注釈書)巻一六、襄公二一年の一節「深山大沢、実生龍蛇」(「深山大沢、実に龍蛇を生ず」)に基づいている。そこでは「深山大沢」は傑出した人物(「龍蛇」のように畏怖される人物)を生み出す場所であるだけでなく、人智の及ばない世界(未知の世界)と人間の世界とが接する不思議な場所として描かれている。
 様々な個性を生かし育む多様性に満ちた環境、そして「龍蛇」さえも生み出すような未知なる力を秘めた場所としての「深山大沢」を、新島はまだ見ぬ「同志社大学」の中に見ていた。人類史を振り返れば、ホモ・サピエンスは多様性の宝庫、「深山大沢」の起源とも言えるアフリカのジャングルを離れ、自らの足で立ち、移動することによって、未知なる次の「深山大沢」目指したのであった。未知なる場所への絶えざる移動の結果、人類は地球全体に広がり、さらに今後は、宇宙空間での居住すら真剣に模索する時代を迎えようとしている。
 現代の課題は、キャンパスを「深山大沢」となし、産官学や地域を連携させるハブとしての「深山大沢」を展開し、日本や世界の「深山大沢」(未知なる世界)を学びの場とすることである。学びによって真に自由になることこそ(貧困・差別・争い・我欲等からの自由を含む)、新島が追い求めた「自由教育」の目的であることを思い起こせば、同志社はその理想を追い続ける必要があるだけでなく、それが人類史的な課題に連なっていることを「共に知る」必要があると言えるだろう。

引用文献
同志社編『同志社百年史』通史編二、1979年。
同志社編『新島襄の手紙』岩波文庫、2005年。
同志社編『新島襄 教育宗教論集』岩波文庫、2010年。
同志社大学 良心学研究センター編『同志社精神を考えるために』2023年。
同志社大学 良心学研究センター編『SDGs ネクスト「深山大沢」プロジェクト──ミツバチから宇宙まで』2023年。
新島襄全集編集委員会『新島襄全集』1、同朋舎、1983年。

本稿は「新島襄の精神とその現代的展開」(『ピューリタニズム研究』第18号、18-23頁)を一部改稿したものである。

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